二 竜の声 前編
満月までの三日間は、彼の十七年間の人生で最も時が過ぎるのが速かった。純白の衣装を纏い、黒鈴の杖を持ったイーレンは、早朝の鐘と共に衛舎へ向かう。
「お久しぶりです、イーレン」
「本日の世話役を勤めます、イーレンです。お迎えに上がりました、ユゥラ姫」
両手の人差し指と中指を合わせ、胸の前に三角形を作った神職の礼に、ユゥラは優雅に手を差し伸べて応えた。神の花嫁になる彼女は、決して人に頭を下げてはならない。
「失礼いたします」
「よろしくお願いします」
白く細い手をそっと取る。感情を込めて握りしめないよう、全神経を集中させて耐える。彼女の手は震えていなかったし、見下ろした青い瞳は少しも揺らいでいなかった。そのまっすぐな色を、美しいなと思う。
(俺も、頑張らないと)
こんなに小さくて華奢な女の子に負けてはいられないと己を奮い立たせ、イーレンは漆黒の布が敷かれた道を通って彼女を本殿へと導いた。この日のために特別に雇われた巫女たちが花嫁を迎え入れ、ユゥラは着替えのために奥の間へ消えていった。イーレンは扉の外で彼女を待ちながら、この後の手順を何度も頭の中で繰り返した。社での浄めの儀を終えたら、表へ出て大穴まで向かう。里長から祝福の言葉を受けたら――
脳内で竜が十回喚ばれたころ、引き戸がスッと開いて中へ招かれた。黒と茶で統一された室内であざやかに映える紅の髪と、それより少し彩度の低い衣装。ゆっくりと振り返ったユゥラの姿に、イーレンは言葉を失った。
(……そうか、縛めなんだ)
花嫁衣装には腕を通す穴がなかった。ゆったりと床に裾を広げる袖なしの衣の上に、しゃらしゃらと繊細な音を響かせる亜鉄の鈴帯が幾重にも掛けられ、優美に彼女の両腕を封じていた。豪奢な衣装を身につけ、ガラの顔料で化粧を施された彼女は百人中百人が釘付けになる美貌だったが、その姿が美しいほどにイーレンの心は軋みを上げた。
「参りましょう」
「ええ」
手は差し出さない。あれが彼女の手を握る最後の機会だったのだと今更ながらに知って、イーレンは唇を強く引き結んだ。そうしていないと今にも「俺と逃げよう」と言ってしまいそうだった。
(いや、言ってしまえばいいんじゃないか? 彼女さえ助かれば、それでいいじゃないか)
頭の中でささやきが聞こえる。何度も、何度も決めた心が揺れ動く。その声に突き動かされるまま彼女を見つめ、そのまっすぐ伸びた背と澄んだ瞳に己の弱さを知る。
重い衣装を着込んだ彼女に合わせ、ゆっくりと一歩ずつ、歩みを進める。廊下にも黒い布が敷かれている。赤と黒はイーレンの大嫌いな色だったはずなのに、ユゥラの髪だけが、なぜかとても美しくかがやいて見える。
浄めの間は、本殿で一番広い部屋だ。中央に置かれた水盤は亜玉ではなく本物の水晶製で、大地の結晶であるその透明なかがやきは氷のよう。里一番の宝であるそれには、並々と水が張られていた。黒い台座のかたわらに立った祭主が、訪れた花嫁に最敬礼する。ユゥラが進み出ると、壁際に並んだ神官たちが、シャリン……と一斉に杖先の鈴を鳴らした。水盤から水晶の杯に水が汲まれ、花嫁がそれを受け取る。今日は鈍色の衣装の祭主が一歩下がって、イーレンに場所を譲った。もう一度、シャリン、と鈴の音。
『花嫁よ、浄めの水を』
この日のためにイーレンは、歌わずとも竜の声を自在に出す修練を積んでいた。やわらかな少年の声の裏側に潜む、深い唸りの不協和音。異界から響くようなその声に、神官たちは息を呑む音を押し殺した。
「はい」
花嫁が杯を掲げると、神官たちが背後に控えた見習いへ杖を預け、小さな笛を一斉に構えた。神秘的な婚姻の音楽が始まる。ユゥラが杯をゆっくりと口元まで下ろし、亜玉から汲んだ浄めの水を飲み干した。祭主が杯を受け取り、赤い刺繍の帯を手にしたイーレンが歩み寄る。決められた結い方で真ん中にひとつ結び目を作り、ユゥラの背後へ回って腕を回し、口元にそれを差し出した。
『花嫁、帯を』
「……イーレン」
その時、ごく小さいささやき声でユゥラが言った。イーレンは帯を構えた姿勢のまま、小声で応えた。
「なんでしょう」
「私のことを、忘れないでいてくれますか」
「生涯をかけて、決して忘れないと誓う。澄んだ水を見るたび、君の瞳を思い出すから」
そのささやきを聞いて、ユゥラはゆっくりと微笑みを浮かべた。紅を塗られた唇が開き、そっと結び目を口に入れる。イーレンは手にした帯の両端を頭の後ろで結ぶと、「痛みはございませんか」と言った。小さなうなずき。シエンが歩み出て、黒い
儀式用の長い鈴杖に持ち替えたイーレンが花嫁を先導して社の外へ出ると、わあっと歓声が上がった。里の人々が社の前から大穴まで、敷かれた黒い布道に沿ってずらりと並び、花嫁を待ち構えている。どの顔にも憂いの色はない。地表への道が開かれることへの期待に満ちた笑顔ばかり。美しい朱色の花嫁衣装を目にした娘たちが、憧れに頬を赤くする。
(狂ってる)
おめでとうございますと口々にかけられる声が、殺せ、殺せの大合唱に聞こえる。
こうして神官となった目で見れば、確かに儀式は残虐に見えぬよう、あらゆる配慮がなされていた。血痕を隠す黒い舞台に、真っ赤な衣装。濃密に焚かれた香。肉を穿ち骨を砕く音をかき消す楽の音、そして面紗の下で花嫁に咬ませた猿轡。
しかしそれでも、あの日のエナ姉さんが贄であったことは明白だった。七歳だったイーレンの心を粉々に砕き、十年経った今も彼から笑顔を奪い続けているあの出来事が、なぜ、誰の心にも悲劇の跡を残していないのか、イーレンにはさっぱりわからなかった。人の死を見て祝福の声を上げるその心根が、醜悪に感じてならなかった。
(狂っている、みんな)
シャリン、シャリンと繊細な音が鳴る。イーレンの掲げる杖と、ユゥラを縛る帯に飾られた鈴の音だ。華やかで明るい和音を奏でていた笛の音が、舞台へ近づくにつれて少しずつ、不穏な色を帯び始める。竜の咆哮に似せた不気味な音色を、人々は神がかった美しい音として聴く。こんなにもおぞましい響きをしているのに、まるで取り憑かれたように、人々は神喚びの声をありがたがる。竜の声がもたらすめまいも吐き気も、神の威光は人の身に負担が大きいのだと、訳知り顔で言う。何も見えず、聞こえていない。信仰の名の下に目も耳も塞いだ、愚かで腐った群衆。
(全部、壊してやりたい。ぐちゃぐちゃに潰して、砕いて、塵にしてやりたい)
近づいてきた大穴と、その真ん中に迫り出した舞台を見据え、竜の色をしたイーレンの瞳はごうごうと燃えていた。十年かけて腹の奥底で育ててきた炎が業火となって全身を巡り、その理性を端から崩していっていた。にこやかに花嫁へ手を振っていた群衆が、彼の顔を見て一人、また一人と笑顔を消してゆく。困惑の波が静かに広がってゆき──穴の縁で控えるはずだった神官が花嫁を後ろに引き連れたまま舞台へ上がってゆく様子を、皆が不安げに見つめた。
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