二 大穴

 その晩、食事もとらずにふて寝したイーレンに、師は何も尋ねなかった。静かに見守るような視線に、なぜかひどく裏切られたような気持ちになって、彼は一言も喋らないまま朝食も食べず家を出た。何も喉を通らない気分なのに腹だけは鳴って、イーレンはその羞恥と怒りにカッと頬を赤くした。ガラの枝の飛び出たところを強く蹴りつけ、拳で幹を殴る。思ったよりも手が痛くて目尻に涙がにじんだが、格好悪いので右手を抱えてうずくまるのは我慢した。


「ふふっ、痛そう」


 とそのとき、背後から彼に声をかける者があった。振り返るとシエンだ。


「朝食はとった方がいい」


 握り飯らしい包みと水筒を持ち上げてみせるシエンは、いつも通り朗らかに微笑んでいる。憂いの見えないその顔に少し毒気を抜かれ、イーレンは「向こうで食べよう」と先導する彼の後におとなしく続いた。


「……どうして」

「昨夜、泣きながら飛び出していったのを見たから。あ、握り飯はジレン師のお手製だよ。迎えに行ったんだけど、君のほうが一足早かったんだ」

「泣いてない」

「そう?」


 まだ薄暗い森の中をしばらく歩くと、唐突に朝焼けの差し込む場所に出た。多層森林をそこだけくり抜いたように、遥か深く地表から空まで抜ける円筒型の空洞。その直径はおよそ八間。にできた大穴だ。


「なんでここに」

「下を見てごらん。足元に気をつけて」


 笑顔のまま促され、言われるがままそっと、穴の縁に這いつくばって下を覗く。

「下の方が、もうかなり森に覆われてきているだろう? 儀式なしでギリギリこの穴を維持できるのが、十年なんだ。大地の神は花嫁を捧げられると、その礼として森にこの大穴を穿ってくださる。一千年の間、私たちはこうしてこれを維持してきた」

「こんな穴、維持したところで何の意味もない」


 イーレンが吐き捨てると、シエンは微笑みを浮かべたまま哀しげに眉を下げ、ゆるく首を振った。


「大地を取り戻せるかもしれないという、一縷の望みだ。たった一本だけ残された希望の糸だ。人類はこの大穴を捨てないよ、決して」

「『花嫁』たちの命を犠牲にして取り戻す血塗られた栄華に、一体どれほどの価値がある? そんな腐りきった遺産目当ての奴らのために、俺に、人を殺せと言うのか?」


 思わずカッとなった。シエンは荒々しく立ち上がったイーレンの手を取って引き、「危ないよ」と大穴の縁から遠ざけた。手を振り払って背を向ける。落ちたっていい。むしろ上等だ。そういう気分だった。


「なら、私にその地位を譲るかい? イーレン」


 意外な言葉に振り返ると、シエンは色の浅い瞳でイーレンをまっすぐに見て、笑みを深めた。いつも爽やかに笑う彼らしからぬ、底の見えない濁った笑顔。


「シエン?」

。君が辞退するなら、私が次期祭主。逃げ出したところで花嫁は救えないよ、イーレン」


 狡猾な色を含んだ琥珀色の双眸が、昇る朝日を映して甘ったるくかがやいた。澄んだ早朝の風が薄茶の髪をサラサラと揺らす。見下すようでどこか蠱惑的なその立ち姿が、彼をいつもとまるで別人に見せる。


「シエン、君は……いつから」

「はじめから知っていたさ。ジレン師はもちろん、神官たちもみんな知ってる。君の歌声は他の誰とも『違う』って。次の嫁入りは君が歌うんだろうって」

「なぜ」

「なぜ誰も口に出さなかったかって? そりゃあ、言うまでもないからさ」

「……知っていたら、俺は」

「喉でも潰したかな? それとも今からそうするつもり? だから、私に押しつけて逃げてもいいと言ってやっているんじゃないか」


 嘲るように言った彼の瞳の狡猾さが、少しずつ崩れてきている。イーレンは浮かび上がってきた心配と親愛の色を少しの間見つめて、ため息をつくとその場に座り込んだ。


「イーレン」

「握り飯、ひとつくれないか。意地を張って昨夜から何も食べてない。ずっと腹が鳴ってる」

「イーレン」

「俺がやるよ、シエン」


 塩漬けの梅が入った握り飯に齧りつきながら、イーレンはつぶやいた。シエンが隣に座った気配。


「どうせ救えないなら、せめて俺がやる。少しでも花嫁の苦しみが和らぐように、何かできることがあるかもしれない」

「立派だよ、イーレン」


 シエンがそっとイーレンの肩に腕を回し、囁いた。イーレンは下を向いたまま空っぽの胃にもう一口握り飯を押し込み、無理やり咀嚼してぬるい茶で流し込んだ。


(立派? どこがだ)


 もし、イーレンが花嫁を連れて逃げたら、祭主の娘は救えるかもしれない。しかしそれではきっと、別の花嫁が新たに選ばれるだけだろう。ならばイーレンがあの人の跡を継いで祭主になれば、嫁入りの儀そのものを廃止できるかもしれない。


(だがそれは、今年の花嫁を見殺しにするってことだ。ウロ祭主が老いて引退するまで、きっと次も、その次の花嫁も。それのどこが)


 立派なところなんてどこにもない。ただ、殺人の罪を背負って生きる人生より、それを友になすりつける罪悪感が勝っただけだ。悔しさが顎をつたって、握り飯に塩味を足した。シエンはそんなイーレンからそっと目をそらし、高くなってきた朝日を見上げて明るい声を出した。


「そういえばユゥラ姫様に、イーレンはお会いしたことあるかい? というか君、女の子とちゃんと話したことがある? これから世話役になるんだから、ちゃんと気遣ってあげないといけないよ」

「は?」


 顔を上げると、シエンはすっかり憂いも心配も消えた顔で、にんまりと楽しげに笑っていた。


「美人だぞ、彼女。一度も女の子と喋ったことないイーレンが、まごまごしないでいられるかなぁ」

「一度もって、そんなこと」

「言っとくけど、通りすがりの挨拶は含めないからね」

「……そんなはず」

「え、ほんとに?」


 冗談だったのに、と琥珀色の目が丸くなり、イーレンの頬がじわりと赤くなったとき、早朝の鐘が鳴った。石も金属も秘宝級の貴重品であるこの時代だ、古代と違って精度の高い機械式時計を各家庭に普及させるなんてことはできない。梢の上に造られた時計台の日時計に従って鳴らされる亜鉄の鐘の音が、皆の生活を整えている。


「……早く行かないと遅刻するぞ」

 さっと立ち上がったイーレンに、シエンが「まだ余裕あるよ」と目を細める。


「そういう顔は普通にできるじゃないか、イーレン」

「うるさい」

「うん、年相応で大変結構」

「黙れって」


 小突き合いながら神殿に行けば、「おはようございます、イーレン」と神官たちが丁寧に頭を下げた。いつも彼らがイーレンに丁寧な言葉で接するのは、同じ禰宜で年上のシエンよりもイーレンの方に指示を仰ぐような態度を見せるのは、彼の無表情がちょっと不気味で怖いとか、そういうことではなかったのかもしれない。


「今日は、楽しみにしております」


 いつも賑やかで人懐っこいユンが真剣な顔をして、憧れのまなざしで彼を見上げる。その手には小さな笛と、歌詞の載っていない楽譜。花嫁衣装に使われる鈴のための歌は、イーレンひとりで歌うのだと今更ながらに気づいた。

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