第二章 才能
一 呼び出し
「イーレン、祭主さまがお呼びです」
後片付けをしようと鈴殿へ帰ってくるなり、先に戻っていた面々にそう言われた。どうやらイーレンたちが花を見ている間に、この部屋まで来ていたらしい。祭主のことが少々苦手らしいユンは、運よく鉢合わせずに済んだとシエンの背に隠れてほっとした顔をしている。
「帰ってきたら、その、部屋の真ん中に立ってらして。びっくりしましたよ」
「祭主さまが? おひとりで?」
「そうそう。戸を開けたら目が合って」
「うわ」
そりゃあ怖い、とシエンが苦笑いになる。確かに祭主はいつも怒ったような顔をしているが、眉間に皺を寄せる癖があるだけで、本当に怒っているわけではないと思う。
「怖い人じゃないだろう、べつに」
そう言うと、シエンはいやいやと首を振った。
「そりゃ、イーレンは気に入られてるから。才能があるし、知識もある。凡人には厳しいんだよ、あの人」
「……そうか?」
「『何々はどうなっている?』って訊いてくるだろ? ちょっと答えに詰まったりすると、嫌そうな顔でため息をつくんだ。で、すぐ背を向けて行っちゃう」
「あれは『なら誰に訊けばいいんだろう』っていう困り顔じゃないのか?」
「……生真面目なようで意外と能天気だよね、イーレンって」
「そうだろうか」
首を捻っていると、なぜか笑いをこらえた顔になっているセンダが「それより、行ってらっしゃいませ」と促した。それにうなずいて「行こう」とシエンに声をかければ、「ああ、イーレンおひとりですよ」とセンダが首を振る。
「そうなのか?」
「なんだろうね、珍しい」
シエンが不思議そうに目をぱちぱちとさせる。この仕草はなかなか感じがよくて参考になる、と思ったイーレンは、同じように瞬きをしながら「一人でいいなら、大した用じゃないんだろう」と返した。
「かもね。顔とセリフが合ってないよ、イーレン」
「そうか。どこがどう」
「いいからほら、行っといでよ」
背を押されて締め出されてしまったので、イーレンは仕方なく鈴殿から中庭を横切る渡り廊下へ出て、
「祭主さま、イーレンです」
感情のない声が戸の前で呼ばわれば、戸の内から「入りなさい」と感情のない声が返された。膝をついて引き戸を開けると、薄暗い衛舎にまだら模様の西日が差し込んだ。社の建物はどれもこんな感じだが、自分の家までこのように暗くて気が滅入らないのだろうか。
祭主はなにか書きものでもしているところのようだった。机の上に書物が開かれていて、その机に明かりを落とす、南向きの小窓が開いている。小窓は本当に小さな窓で、大人の手のひら一枚ぶんほどしかない。本当に、机上を明るくするためだけのものだ。こういう構造を見ると、社の中がどこもかしこも暗いのは何か意図があってのことなのだろうな、と感じる。
「俺に御用と聞きました」
書物を読みふける、猛禽のような鋭い横顔を見ながら声をかけた。祭主は確か、歳は五十とかそのくらいだったはずだが、後ろで括った長い髪は全部銀髪だ。
「座りなさい」
こちらを振り返らぬまま、低い声が冷たく言った。イーレンが「失礼します」と座布団に腰を下ろせば、祭主は書物を閉じて立ち上がり、囲炉裏に火を入れた。
「
「あ、お淹れします」
「ふむ」
申し出ると、祭主は小さくうなずいてイーレンの方へ茶筒を滑らせた。月光色の茶葉を匙で二杯、亜玉の急須に入れて湯を注ぐ。蓋を押さえてほんの少し揺らしながら、十数える。急須は亜玉だが、湯呑みは黒竹だ。小窓のわずかな明かりを受けて光を放つような美しい茶が、なみなみと注がれた。自分の前にひとつ、囲炉裏の向かいに湯呑みをひとつ置くと、机の上から書物を取って戻ってきた祭主が、よく見ていなければわからないくらいに小さくうなずいた。おそらくこれがこの人の「ありがとう」なのだと思うが、皆はこれを見逃しているから、彼を恐ろしい男だと思っているのではないだろうか。
祭主がイーレンに書物を手渡し、あぐらをかいて茶に手を伸ばす。一口すすって、かすかなうなずき。小さくうなずき返したイーレンは、鮮やかな紅色の表紙に視線を落とした。墨書きで、流麗な「歌」の文字。
「これは」
「楽譜だ」
パラパラとめくると、確かに楽譜集である。ただ、知らない曲ばかりだ。社の年間行事で歌う曲は全て暗譜しているが、そのどれとも違う、むしろ神事に使われる曲ではないのではと疑うような、奇妙な旋律だ。
「なんですか、この曲」
「神喚びの歌だ」
「……は」
言葉にしがたい感情が湧き上がり、イーレンはそっと深呼吸すると、楽譜を置いて湯呑みに口をつけた。月の光のような色をしたこの茶には、心を落ち着ける効能がある。あたたかいだけで味も香りも感じなかったが、飲まないよりはマシだろう。
イーレンはもう一度深く呼吸して、静かに言った。
「書き写して配ればよろしいですか」
当日、九人の神官のうち禰宜であるシエンとイーレンを除いた七人は、笛で伴奏をすることになる。もちろんイーレンたちもおおよそ曲の流れを把握しておく必要はあるわけで、そのための楽譜だろう。
そう見当をつけていたのだが、祭主は「皆には配布してある」と首を振った。
「え、いつの間に……」
「イーレン」
ふと気づくと、間近で見下ろされていた。あたたかな囲炉裏の熾火に照らされて尚、冷たい光を反射する瞳がイーレンを射抜くように見る。祭主は放り出されていた楽譜集を拾い上げ、開くと、初めのページの一節を指差した。
「歌ってみなさい」
有無を言わせずというより、どこか脅すようにも聞こえる低い声がそう命じる。
嫌だ、と言いたかった。イーレンは目を泳がせ、まだあたたかい湯呑みをぎゅっと握りしめたが、骨ばった大きな手に取り上げられてしまった。手の届かぬ場所に湯呑みを置いた手が楽譜へ戻ってきて、トントン、と同じ一節を叩く。イーレンは詰まったように苦しい喉からヒュウっと息を吸って、か細い声を出した。
「……イ、イグ」
「なんだその裏声は。腹から声を出せ」
「あ、あの、俺」
目の端からぽろりと涙がこぼれた。だが、恥ずかしいと思う余裕もなかった。祭主の白い袖が乱暴に目の端を拭い、凍りついたような声が静かに「歌え」と言った。イーレンは強く目を閉じて、開き、今度はきちんと息を吸った。
『──
神官になってわかった。イーレンも、祭主も、決して音痴ではない。朗々と響く声は、伴奏がなくとも楽譜通りの旋律を正確に、美しく歌うことができた。ただ、その旋律の裏に低い唸り声が隠されているような、いくつもの音が背後で共鳴し合って頭の奥を揺さぶるような、異形の歌声をしていただけで。
「わかっているだろう」
「わかりません」
問われて、とっさにそう答えた。
「大地の神の声を真似て生み出された唱法、と伝えられている。今は
「……わかりません」
「イセンの子にしてジレンの弟子、イーレン。汝は天性の竜声を持つ、神韻の申し子だ。わかるだろう、君の才は私を遥かに凌ぐ。次期祭主として、こたびの嫁入りの儀を成功させてみせよ」
(嫁入りの儀を、俺が)
その言葉の意味を認識した瞬間、パッと脳裏に紅色の記憶が走り、イーレンは両腕で自分の体を強く抱いて身をかがめた。全身から冷や汗が吹き出し、見開いた瞳からぼたぼたと涙が滴る。途切れとぎれに喘鳴を漏らす少年を温度のない瞳で見下ろし、祭主は淡々と言った。
「最も才あるものがつとめると、定められているのだ」
「……そっ、それ、は」
「落ち着きなさい」
「お、俺は」
祭主は長い袖でイーレンの頬を拭い、ほんの少し眉を寄せて言った。
「今までの儀式で死者や負傷者が出たことは一度もない。舞台袖で詠唱する君の身の安全は保証されている」
「死者が、出たことは、ない?」
思わず祭主を凝視してしまったが、幸いなことに少年の表情は動かぬままで、声音もまた、責めるような色を帯びてはいなかった。祭主はどうにか呼吸を落ち着けたイーレンの手に「飲みなさい」と冷めた湯呑みを戻しながら「神の花嫁になった者を、死者とは称さない」と言う。
「あなたは、それで」
「次の花嫁は、私の娘だ」
「娘?」
思いもよらぬ言葉が飛び出して、イーレンは一瞬激情を忘れてきょとんとした。結婚を許されない神官がなぜ、と疑問を込めて見上げると、祭主は「妻と死別し、神殿に入った」と言う。
「それで、お子さんが」
「そんな私が祭主の位を得たのは、神韻詠唱の才があったからだ。君には劣るが」
「でも、自分の娘を」
「この上ない栄誉だ。娘自身も、喜んで神へ身を捧げることだろう。そのように教育してある」
「教育って」
「故にイーレンよ。君に神喚びの歌を伝授する。毎夕、勤めの後にここへ来るように」
飲みなさい、と促す祭主の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。悲哀も怒りも、娘への愛情も。冷えきった瞳を呆然と見上げ、イーレンは叩きつけるように湯呑みを置くと、くるりと無言で背を向けて衛舎を後にした。
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