三 鈴を練る
無数の引き出しがひしめく壁面に歩み寄り、イーレンが迷わず取り出したのは
硬度の高い亜玉を職人が精密に削って作ったこの容器は、もともと茶筒として生まれたものであり、かなりの密閉性を誇る。しかし、それでもどこかから香りが漏れ出しているのか、それとも調合時の残り香なのか、部屋の中は数百種の香の混ざり合った強く複雑な芳香で満ちている。とはいえ、ここの香はすべて儀式用だ。調合割合は神典によって厳密に定められているので、鼻がひん曲がっていてもなんら問題ない。
まあ、今日のような「嫁入り」関連の儀式では殻香しか使わないので、秤もすり鉢も必要ない。イーレンは香室を施錠すると窓際で大きく深呼吸し、手首のあたりをかいで嗅覚を落ち着けた。業務に支障ないとはいえ、鼻が曲がっていても気にならないというわけではないのだ。
来た道を引き返し、渡り廊下で
「一輪咲いてましたよ!」
と、慌ただしく駆け込んできた新人のユンが、朝の挨拶もなしに開花宣言を決めた。各々作業に打ち込んでいた神官たちも、パッと明るい顔になって手を止める。
「お、どこどこ?」
「上です。台の整備してて」
いまだ互いに挨拶を忘れたまま、わいわいと少年の周りに集まった面々が、期待に満ちた顔でイーレンを振り返る。
「イーレン、ちょっと見てきていいですか?」
「すぐに戻ってくるなら」
うなずいてみせると、嬉しそうに拳を握って仲間を見回す。その仕草をじっくり観察しながら、「イーレンも行きませんか」という言葉には首を横に振った。
「いや、俺はいい」
「ほんとですか? まだ時間はありますよ」
「後で見ておく」
上にはどうせ行くことになるんだから、そのときでいい。そう続けると、同僚たちは「そうですか。やっぱりイーレンは真面目だなあ」となぜか感心したように言った。ここで「不信心」ではなく「真面目」になる理由が、やはりイーレンにはよくわからない。己の顔面は常に無表情で、とくに真面目そうな顔はしていないと思うが、面倒そうな表情もしていないところがいいのだろうか。不満というのは、本人が思っているよりも顕著に顔に出るものだ。人間の表情についてならイーレンは詳しい。
「ユン、案内」
「はい!」
先輩神官ふたりに両側から肩を組まれたユンが、誇らしげに笑って皆を引き連れていった。神官になった十歳のときを思い出しても、イーレンはあんな風に年上の神官たちから可愛がられたことはない。少々遠巻きに、どう扱ってよいのかわからない顔で見られていた。やはり才あるものは幼いころから違うのだなと、イーレンは深く感心した。パッと明るく、親密そうに顔いっぱいで笑うユンの笑顔をひとり真似しながら、抹香をひと匙ずつ皿に取り分けていると、がらりと戸の開く音がした。
「咲いたらしいね──どしたの、ニコニコして」
清浄な水がたっぷり詰まった亜玉の瓶を抱えて、シエンが戻ってきた。イーレンは満面の笑みのまま、感情の欠落した声でぼそりと言った。
「ユンの笑顔」
「ぶっ」
なぜかシエンが腹を抱えて笑いだし、前のめりのまま胸を押さえてヒィヒィ言いながら「ちょっと、水、こぼれるって」となぜかイーレンを責めるような口調で言った。自分で勝手にそうなっておいて、理不尽である。
「どこかおかしかったか?」
「いや……まあ、特徴は掴んでるけど、そこじゃないんだってば」
「どこがおかしいんだ」
「いや、君はそのままでいいよ。おもしろいから」
だから、何がどうおもしろいんだ。と思ったが、疑問に思っている顔を作っても追加で笑われるだけな気がしたので、やめておいた。亜玉の小皿に分けた抹香と、同じく亜玉の小さな盃に注ぎ分けた水を、シエンと二人がかりで台の上に並べてゆく。戻ってきたユンたちがそれぞれ道具を手に台の周りに並ぶと、シエンが鈴杖をチリンと鳴らして言った。
「
「──
神官たちが一斉に応え、揃って礼をした。イーレンが進み出て、黒光りするガラの実の殻を一掴み、大きな亜鉄の薬研に入れる。硬い殻が音を立てて挽かれ始めると、鈴殿は途端に賑やかになった。薬研で細かくした殻を小さな鉢に移し替え、なめらかな粉になるまで丁寧に
小麦粉を練った生地よりは少し固い程度に仕上げられたこの物体は、「ガラ
手先の器用なセンダが、ムラなく混ざったガラ錆を
「はい」
「ありがと」
大輪の花のようになった塊から、センダが華麗な手つきで小さな花びらを千切りとり、皆に分配してゆく。それを型に入れ、ぎゅっと体重をかけて挟むと、浮き彫りの花模様が美しい鈴──という名の小さな鐘の片割れができるのだ。次々に挟んでは取り出し、左右を合わせ、水でゆるく溶いたガラ錆を接着剤がわりに組み立てる。大中小の三種類が三十三個ずつ、合わせて九十九の鐘と、内側にぶら下げる
「九十九の声が練り上がりました」
「
「今夜は満月。月の恵みも授かれるでしょう」
「夕までの番は私が」
「では、朝までの番は私が」
「夜は長い。あたためた石を持って、私もお供いたしましょう」
神典になぞらえた会話が、事前に決められた役に従って進む。恵みがどうのと言っているが、要は水で練って作った鈴を、明日の焼結に向けて日の当たる梢の上で干しておくということである。もちろん、「あたためた石」なんてものはこの最上層にほとんど存在しないので、カイロは丸く整形した亜鉄を熱したものだ。
籠に乗せた鈴を持って、九人の神官がぞろぞろと、梢の上に設置された台の上に上がる。早春にしてはあたたかい日差しの下に丁寧に並べ、祈りの言葉を唱えたら、見張り番以外は解散だ。終わった、終わった、と思いながら梯子を降りようとしたところで、にっこり笑ったユンに袖を引かれる。
振り返ると、そこには赤錆色の花が大きく花弁を広げていた。
「朝より開いてます」
嬉しそうにユンが言う。「一輪めだね」と横から覗き込んだシエンが顔をほころばせた。
イーレンは笑わなかったが、彼の無表情はいつものことなので、誰にも訝しがられずに済んだ。
〈第一章 了〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。