二 白と黒の社

 大きなケヤキの向こうから手を振っている、いかにも爽やかな立ち姿の青年は、同僚のシエンだ。正確な年齢は知らないが少し年上で、周囲から距離を置かれがちなイーレンを弟のように可愛がってくれる奇特な人間である。今日も実にあたたかく優しげな、笑顔だ。それにひとつ発見もあった。彼の声は、声だけで笑みを浮かべているとわかるのだ。少し高めで、口の中の空間を少し横に押しつぶした、そう、ちょうど口角を上げたまま発声したような声。


「シエン、おはよう!」


 魂が抜け落ちたような無表情から一転、きらびやかな満面の笑みを浮かべ、出会えた喜びに声を弾ませてイーレンが応えた。そして灰衣の青年が小走りに追いついた瞬間、ストンと顔から全ての感情が失われる。シエンがぎょっとして笑顔をこわばらせたのを見て、イーレンは肩を落とした。


「……やはり、俺の笑顔はどこかおかしいんだろうか」

「いや、そこじゃないと思うけど」


 シエンが苦笑する。仕方ないなあ……という雰囲気のにじみ出た、愛情深い苦笑だ。イーレンは少し考えて、失敗を指摘されて恥じらうような笑みを顔面に貼りつけた。


「そこじゃない、というのは?」

 恥じらいの欠片もない声で尋ねた少年に、シエンが苦笑を深める。

「その、突然無表情になったり突然笑顔になったりするのがね、あまりにも急激で……何度見ても、ちょっと不気味というか」


(面と向かって、不気味と言われたな)


 しかし嫌な感じはしない。彼はそういう表現が非常に上手いのだ。表情や声音で親愛の情を示すことに長けているので、言いかた次第で悪口になる言葉も悪く聞こえない。


「つまり、徐々に変えていけばいいのかな」


 じわじわと恥じらいの表情を無表情に戻してゆきながらイーレンが言った。シエンは「そうじゃない」と首を振って、今度はおかしそうに笑い声を上げた。


「無理して表情を作らなくてもいいんじゃないか? 誤解されて困ることがあるなら、私も協力するよ」

「別に、無理はしていない。感情に表情を合わせようとしているだけだ」


 にこ、と安心させるような笑顔。少しゆっくり表情を戻す。


「ふむ、私に会えて嬉しかった?」

「ああ」

「……うん。すごくいい子なんだけど、ちょっと不器用すぎるなあ」

「不器用」

「私は嫌いじゃないよ、君のそういうところ」

「似たようなことを師にも言われた」

「そっか」


 話しながら歩いているうちに、神域を囲む亜玉あぎょくの林が見えてきた。珪素を溜め込む竹の性質が数百年に及ぶ品種改良によって高められた結果、ほとんど水晶のような半透明の白い植物に変質したものだ。


 人々は里で過ごす十年間のうち、九年と十一ヶ月はこの白く透き通った神域の情景を眺めて過ごす。山も岩場もはるか森の底に置いてきたこの樹上で亜玉は貴重な資源だが、それ以上に、透き通った純白の竹林は神秘的で浄らかな印象を抱く。


 その白一色の情景を一変させるのが、十年に一度、春先に咲く真っ赤なガラの花である。このあたり一帯の土台を作っている主要な木であるからして、天井、床問わず視界いっぱいに咲き乱れる様子が、そう、あとひと月ほどで見られるだろう。イーレンは隣を歩くシエンに悟られぬようさりげなく、ふっくらとした茶色い蕾をひとつ靴底ですりつぶした。


 里じゅうどこを見ても視界に入るこの蕾のせいで、イーレンはここ最近竜の夢ばかり見ている。真紅に染まった夜明けの里を見下ろす、おぞましい異形の化け物。耳に残る不快な歌声。かすかな鈴の音。曲がるはずのない方向に折れ曲がって垂れ下がり、虚ろにこちらを見つめる薄茶の瞳。既に癒えた傷跡を、毎晩毎晩、真っ黒な牙で抉ろうとする「大地の神」。


 起き抜けに愚痴をこぼして師匠に聞き咎められたのもそのせいだ。ああ、せっかく積み重ねてきた「もう心配ない」「影のない幸福な」イーレン像が台無しである。ため息をつきたくなるが、袖の内側で手を握ってこらえる。強く意識しない限りはぴくりともしない表情筋のおかげで、大袈裟な仕草にだけ気をつけておけばいい。不便なことのほうが多いが、こういうときには都合がいい体質である。


 透き通った亜玉の林を通り抜けると、社が姿を現した。壁も屋根も漆黒に塗りつぶされた外観は、全身真っ黒な大地の神にあやかっているらしい。漆塗りは日光で劣化しやすい性質があるため、透明な竹のかんを通してそこここで木漏れ日がきらめく神域には向かない外壁塗装だが、数年おきに塗り直してでも漆黒を保っているので、相当なこだわりである。今年の「開花」に備えて昨年の夏に工事が入ったときは、シエンが全身かぶれて大変そうにしていた。


 今しがたくぐった鳥居も漆塗りだが、こちらは社と違ってガラの顔料が使われているので赤色だ。雨にさらしておけば、このように鈍い紅色に変化するガラの殻だが、錆びていないものは焼成して亜鉄にする。毎夜悪夢の中で鳴っている、あの鈴の材料である。今日、これから行うのが、その鈴を作る儀式なのだ。


 イーレンたちは鳥居のすぐ内側に造られた苔殿たいでんに入ると、手早く準備をすませた。手と口を浄め、たすきで袖を上げると、シレンは戸棚からノミと槌と杯を取り出し、こちらにひらりと手を振って足早に外へ向かった。伸び始めた春の亜玉には、神域の床から吸い上げられた水がたっぷり溜まっている。それを採取しに行ったのだ。


 対してイーレンは苔殿の奥へと向かう。皆が出社してくるまでにもうしばらく時間があるので、いまこの建物にいるのは彼ひとりきりだ。床板のかすかな軋みが狭い廊下に反響する。換気のために障子を開けながら歩いているが、真っ黒な苔殿は内部まで真っ黒に塗られているせいで、晴れた日の朝でもやたらと暗い。


 だが、風とともに入ってくる竹林のやわらかな香りには心がゆるむ。澄んだ空気を味わいながら奥へ奥へと進めば、爽やかでどこかあたたかい亜玉の香りに、複雑で甘ったるい匂いが混ざり始めた。それを辿るようにしてゆけば、最奥の扉の前にたどり着く。


 懐から取り出した亜鉄の鍵で錠を開け、静かに戸をくと、むせかえるような強い香りが押し寄せた。小さな引き出しで天井までぎっしり埋め尽くされたこの部屋は、香の保管庫である。シエンとふたりで禰宜ねぎの職を担っているイーレンは、儀式で焚くさまざまな香の管理を任されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る