第一章 神官

一 「終末」後の世界

 世界が終末を迎えるとき、喇叭ラッパの音とともに地上には竜が現れ、川や海は血の色に染まり、あらゆるものが戦火で焼かれるだろう──そう預言していたのはどの宗教だったろうか。その名や教えのほとんどは千年の歳月の間に失伝してしまったが、「預言」がおおよそ正しかった、ということは伝え遺されている。


 国ひとつを横断できるのではといわれた巨大な「竜」が、あるとき突然、海から上がってきた。当時、今ではとても考えられない高度な知識と技術を持ち合わせていた人類は、その叡智の全てをかけて竜を殺しにかかった。ありとあらゆる兵器がかき集められ、地上は火の海になった。無数の犠牲を出したが、その甲斐あって人類は勝利した。


 と、思われた。


 確かにそのとき竜は死んだ。だが、竜の死骸から流れ出た血潮があらゆる川を赤く染め、海までもが色を変えてしまった。生命線たる水源を一度に失った人類を、更なる悲劇が襲った。巨竜がその体に溜め込んでいた力が、その死とともに大地に還元されたのだ。


 そうして起こったのが、森林爆発である。



   ◇



 この豊かな森に覆われた今の時代を「終末の世」と呼ぶかどうかは置いておいて、ともかく人類はそのとき一度、全てを失った。そして千年の月日が経った今も、人類はなくした過去に焦がれ続けている。


「それで何をどうしたら、その竜の子孫だかなんだかを神と崇めることになるんだか」

「これ、イーレン」

「おはようございます、師匠」


 独り言を聞き咎められたイーレンは、パッと笑顔を浮かべて師に朝の挨拶をした。が、老師ジレンは弟子のごまかし笑いに渋い顔をするでも、やれやれと苦笑するでもなく、なんともいえない微妙な表情になった。どうやら、また失敗したらしい。


 凄惨な失恋から十年の月日が経ち、十七歳になったイーレンはなかなか見栄えのする少年に成長していた。すらりと高い背に、細身ながらしなやかな筋肉のついた体格。背に流した長髪は烏の濡れ羽色。地味な鈍色にびいろの神官服もかがやいて見える恵まれた容姿である。だが、その程度では補いきれない欠点が彼にはあった。


「イーレン、お前の気持ちはわかるが」

「気持ちはわかるが、口には出すな。でしょ。外ではちゃんとやってますって」

 彼はもう一度慎重に、今度は半分甘え、半分いたずらめいた子供っぽい笑みを浮かべ、配膳したばかりのジレンの皿からすばやく肉を一切れつまみ取って口に入れる。

「これ!」


 今度は小言とともに苦笑が返ってきた。が、その目の奥にはわずかな哀れみ。

(これでもだめか)


「育ち盛りですから、師匠」


 軽口を叩きながら、イーレンは内心でほぞをかむ。彼はこの十年間、一度も笑顔を作れていなかった。「お前は太陽のように笑う子だ」と褒められて育ったのに、あの日を境に正しい笑い方を忘れてしまったらしい。どんなに明るく話しているつもりでも、皆に困った顔をさせてしまうようになった。もう傷は癒えたのに。平気なのに。この厳しくも優しい師と暮らす日々が本当に幸せなのに。


(口元は完璧だったはずだ。初めは口角だけで皮肉げに、次いでしっかり頬骨を上げて楽しげに。やはり目元だろうか? 意識して細めているのに、どこが違うのだろう)


 眉を下げ、目を細め、頬骨を上げて僅かに歯を見せ、堪えきれないように肩を揺らしてクスッと息を漏らす。


(だめだ、これも失敗)


 今日のところは諦めることにして、イーレンはスッと真顔に戻ると食事を片付けにかかった。ジレン仕込みの上品な所作でゴマ粒ひとつ残さず平らげ、油のついた皿を丁寧に拭う。川も湖もないこの森の暮らしで、水は貴重だ。木の葉や布で綺麗になるものは極力拭き上げるだけで済ます。


 後片付けを終え、立ち上がって帯を締めると丈の長い浄衣を羽織る。髪を高い位置で括り、壁に立てかけられた鈴杖りんじょうを取ると、チリン、と小さな亜鉄の鈴が鳴った。ちら、と年齢不相応に冷たい視線が音を追う。


「では、行って参ります」


 無表情で礼をした弟子に、師匠は愛情深い視線を投げた。


「そういう詰めの甘いところも私は好きだよ、イーレン」

「何のことです?」

「最後まで取り繕えない……いや、なんでもない。気をつけて行っておいで」

「はい。今日から鈴の儀なので、少し遅くなると思います」

「イーレン、無理をする必要は──」

「だから、平気ですってば。まあ……少々思想に問題はあるかもしれませんが、バレなきゃいいでしょ、バレなきゃ」

「そうだな」

「そこ堂々と頷いていいんですか、師匠?」


 ほんのり表面が白くなった師の瞳がふっとゆるむ。ようやく自然な笑みを引き出した。もういちど礼をして戸を開けると、外はやわらかな木漏れ日の光でいっぱいだった。歩き慣れた道のり、つまり分厚い苔の下に太い蔓が通っている場所を器用に踏んで、社へと向かう。


 およそ千二百年前に起きた「森林爆発」によって、地上の全ては森に覆われていた。死した竜から爆発的な生命力を得た植物たちは、木々の梢にまでも蔦と苔を密に蔓延はびこらせ、それを温床に新たな木々を育て――そうして森の上に森、そのまた上に森が重なっている、この多層森林を生み出したのだ。


 光を求めた人々は上へ上へと居住区を移し、今ではおよそ三百階層ある森の最上層付近で暮らしている。かつて人類が築き上げたという巨大な文明を、月までも飛んだという叡智と技術を、全て地表に置き去りにして。


 人々は川の流れる大地から遠く離され、雨水や朝露、それから木々が汲み上げている水分に頼って生活していた。煮炊きする薪には困らないが、火を熾すのは常に森林火災と隣り合わせ。果実と薬草は豊富だが、石や金属は手に入らない。そこそこ豊かで、しかし無くした栄華にはほど遠い暮らし。そんな歴史が一千年も紡がれた過程で、彼らの信仰対象が「天」から「地」へと変わっていったのは必然だろう。


 チリンチリンと鈴の音を鳴らし、鈍色の衣の裾を風に泳がせているイーレンは、若き大地の神官だった。


 正直に言って神官なんぞ、なりたくないにも程があったが、その少し独特な表情のおかげで、周囲には敬虔なように見えているらしい。神に熱心に仕えるあまり、人として普通な笑いかたを忘れてしまった、変わり者の神官さま。


「最悪だ……」


 普通に気持ち悪いだろう、そんな男。イーレンはそうひとりごち、今日の儀式を思ってほんのり眉を寄せた。その横顔を見て、道端で噂話に興じていた娘たちが揃ってため息をつく。整った顔立ちに、感情の欠落したような謎めいた瞳。禁欲的な神官装束。思春期の女子には密かに人気のイーレンだが、そんな少女たちも面と向かって話をしようものなら途端に怯えた顔をするのを知っている彼はなんとも思わない。


(面と向かって不気味と言われないだけ、俺は恵まれているのだろう)


「イーレン!」


 明るい声に名を呼ばれて振り返った。

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