多層森林

綿野 明

嫁入り

 ガラの花が咲いている。頭上の梢も、足元も、見渡すかぎりが紅に染まっている。


 昨日の昼間には赤といっても赤茶に近い、暗くにごった色に見えていたはずの花々が、夜明けの青白い光の中では、なぜか目を刺すようにあざやかな紅色に見える。


 無数の花々がさらさらと風に揺れるなか、紅色の影がひとつ、笑顔で見守る群衆の間を進んでゆく。裾を長く引きずった重たそうな着物は、ガラと同じ深くあざやかな紅。彼女が社から舞台に向かってしずしずと進めば、シャリン、シャリン、と歩みに合わせて亜鉄の鈴を連ねた飾り紐がかすかな音をたてる。


 初恋だった染物屋の姉さんが大地の神に嫁ぐと知らされてから、ろくに食事も喉を通らず、いまだ目の周りを真っ赤に腫らしたままのイーレンは、里の決まりでなければ今日だって参列するつもりはなかった。けれど、ゆっくりとやわらかなその鈴の音を聞いていると、なにか日常のあれこれとは全くかけ離れた、とても神聖な場面に立ち会っている気がしてくる。彼は失恋の痛みをいっとき忘れ、美しき神の花嫁をじっと見つめた。


「ほんとに、エナ姉さんなの?」


 そっとささやけば、師匠が痛ましそうに自分を見下ろした。


「……イーレン」

「違うよ、ちゃんとわかってます。でも、そうじゃなくて」


 そうではなくて、顔を隠して静かに歩むあの花嫁が、自分の知っている陽気で声の大きなエナ姉さんとはあまりに違って見えたから。


 そう言おうとしたが、祭主さまの歌が始まったのを聞いて、イーレンは口を閉じた。儀式のための特別な言葉なので、何を歌っているのかはわからない。普通の結婚式のときとは違う、聞いたことのない変わった旋律だ。十数人の男たちが手のひらより小さな笛を一斉に吹くと、この世のものでないような不思議な和音が奏でられる。神聖なようで、どこか――


 どこか、


 目を眇めてじっと耳をすました少年を横目に見下ろし、老いた元神官は「やはり、耳がよい」と口の中でつぶやいた。華やかな楽の音に紛れる小声を少年は聞き取り、顔を上げる。


「……なんか、音がずれてませんか」

「シッ。静かに聞きなさい」

「祭主様も、ぼくと一緒でちょっと歌が下手なんですね」

「これ」


 老人は小声で少年をたしなめ、そして苦笑した。


「あれは下手なんじゃない。むしろ……いずれ、お主にもわかる日が来る」

「師匠、またそれですか? 子どもだと思って」

「じゅうぶん子どもだろうに」

「もう七つです」


 イーレンは眉を寄せてそう言ってみたが、こちらを見返す師が「仕方がないな」という風な顔をしていたので、話にならないと花嫁へ視線を戻した。漆黒に塗られた木製の通路は、十年前の儀式でできた大穴に続いている。深く深く続くその穴の、ちょうど真ん中まで迫り出した舞台に、姉さんが進み出た。

(ああ、エナ姉さん。大きくなったらぼくと結婚してくださいって言うつもりだったのに)


 イーレンの師は引退した老神官であるので、その教えを受けた彼が「大きくなった」暁には結婚が御法度の神職に就いているはずなのだが、少々夢見がちなところのある少年にはそのあたりの現実がまだよくわかっていなかった。彼は涙がにじまないよう目元に力を入れて、綺麗な赤髪を透けるような薄い布で隠したエナの後ろ姿を見つめ――


 そして突如、イーレンは息を呑んで師匠にしがみついた。


 彼は額を青褪めさせ、すっかり震え上がっていた。

 何も見ていないし、聞いてもいないのに。


(何か、なにか来る――!)


 なにかの気配がした。

 彼はこれまでの人生で「気配」なんてものを感じたことは一度もなかったが、そうとしか表現しようのない、実体のない冷えきった風のようなものが体の内側を通り抜けてゆく感じがした。その気配が遥か下から、すごい速さで近づいてくる。


「師匠」


 喘ぎ声で師を呼び、見上げ、見回して、イーレンは困惑した。師匠を含めた村人たちが、誰ひとりとしてその場を動いていない。子供が数人泣いているだけで、恐怖で叫びもせず、慌てすらしない。むしろ余計に勢いを増して音楽が続いている。


「静かに、イーレン」と師匠。


「師匠、気づいてないの? 逃げなきゃ」

「……大丈夫だ。少なくとも、我々は」


 師匠がつぶやいた。元からおじいさんだったが、その顔には暗い影が差して、いつにも増して老け込んだように見える。イーレンはその様子に疑問を抱いたが、迫りくる気配に気を取られてそれ以上深く考えることはなかった。


(そうだ……姉さん!)


 逃げて、と叫びながらイーレンは花嫁のそばへ駆け寄ろうとした。が、師匠が後ろから彼の口を塞いで強く抱き寄せた。少年は身を捩って大暴れしたが、その年老いた体の一体どこからそんな力が出るのか、師匠の腕は少しも弛まなかった。彼が呻くと口を塞いでいた手は外されたが、腹に回した腕は解いてくれない。


「姉、さ……ッ!」


 ほとばしったイーレンの悲鳴はすぐに途切れた。喉が潰れてしまったように息が詰まって声が出なかった。


(何だ、あれ)


「あれは竜。大地の神だよ、イーレン」

 声なき疑問に師が答えた。


(大地の、神?)


 穴の底から迫り上がってくる、巨大な何かが見えた。黒くて、ぬめりとしていて、それがどんどん近づいてくる。姉さんの立つ舞台を目掛けて。少年は必死に手を伸ばし、老人は歯を食いしばって彼を羽交締めにした。


 それはほんの刹那のことだった。少年の目と鼻の先で、巨大な顎が花嫁の体を空中に攫った。イーレンの腕より太い牙が何本も、紅色の衣装にずぶりと突き立てられるのが見えた。けれど姉さんの声は聞こえない。人形のように軽々と振り回された体が逆さ吊りになって、顔を隠していた布が捲れる。あざやかな紅を塗られた唇は、美しい刺繍の施された帯をきつくかまされていた。


 見開かれた薄茶の瞳と、一瞬、目が合う。


 しかしイーレンが何か叫ぶ前に、竜は彼の目の前を通り過ぎていった。永遠に途切れぬのではないかと思われる、黒く長い胴体。てらてらと鈍く光る竜は翼もないのに、底も見えぬ深い穴から梢の上まで飛び上がると、空中で悠々と体をくねらせ、目のない頭を地表へ向けた。その瞬間に顎が強く閉じられたらしく、華奢な姉さんの体がぼきりと半分に折れ曲がるのが見えた。シャリン、とかすかな鈴の音。


 竜は頭の奥が揺さぶられるような奇妙な唸り声を上げると、来た道を通って帰ることにしたらしい。巨体が再び目の前を通り過ぎる。黒い影がぐんぐんと遠ざかり、すぐ闇に紛れて見えなくなった。祭主様の歌が響き続けるなか、壊れた舞台の端にべったりと、咲き乱れるガラの花にそっくりな、鮮烈な紅色だけが残されている。


 イーレンが七歳になった年、十年に一度の「嫁入り」の朝。


 彼の初恋の記憶は、そこで途切れている。


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2024年11月30日 06:30
2024年12月1日 06:30

多層森林 綿野 明 @aki_wata

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