第32話


「大丈夫か、光葉。心配だったから様子を見に来たんだ」

「もう夕方ですから、近所にはもう寝ていらっしゃる方もいるかもしれませんよ。あんまりピンポンピンポン鳴らしすぎるのもどうかと思います。私、びっくりしちゃいましたよ」


 どこかで聞いたことのある台詞を口にする光葉はパジャマ姿で、頬は瘦せこけ、目の下に隈が出来、心なしかバストサイズも縮んでいるような気がした。


「お前、本当は大丈夫じゃないだろ……」

「そんなことはありません。おばあちゃんの風邪が今になってうつってしまったのかもしれないです。とにかく、少し休めば良くなりますから」


 と言いつつ、光葉はふらつきながら玄関を閉めようとした。


「そんな様子じゃ説得力ないって。飲み物とか用意してるのか?」

「だ、大丈夫、れす……」


 光葉の体が大きく揺れる。


 倒れてしまいそうになった彼女を、俺は咄嗟に受け止めていた。


「ほらな、言っただろ。無理するなって。とりあえずベッドまで運んでやるから」

「だめですよ、先輩に風邪がうつっちゃいます」

「病人が余計な心配をするなよ」


 光葉の体を支えながら、俺は靴を脱ぎ光葉の部屋に足を踏み入れた。


 そして――見た。


 廊下からリビングにかけて広がっていたのは、そこら中に真っ白な埃が分厚く積もり、もはや何がどうなっているのか分からない光景だった。


 そこにはもはや、あの女子女子した部屋の面影すら残っていない。


 地面からはコケが突然変異したような謎の植物が生えており、それはまるでマスクなしでは5分で肺が腐ってしまう死の森を思わせた。


「ベッドは、右手のドアから入ったところです……」


 いやまあ、部屋の構造は俺が住んでいるところと一緒だから分かるんだけど。


「あのー、光葉さん? これってどういうことなの?」

「なんとなく具合が悪くて、ずっと掃除をしていなかったんです。廊下に置いていたお味噌の容器とかも放置していたら、いつの間にかこんなふうに……」

「味噌ってすごいんだなァ……」


 確かによく見れば、コケの亜種みたいな奇妙な植物たちの根元には味噌の容器らしき桶のようなものがあった。


 きっと栄養価の高い味噌だったのだろう。光葉の味噌汁を初めて飲んだ時、トリップしかけたことを思い出した。


 とにかく、廊下に広がった腐海の森を抜けて、俺は光葉の寝室に突入した。


 カーテンを閉め切られた寝室は暗く、そしてベッドの周辺には学校の制服やパジャマなどの衣服が散乱している。


 とりあえず俺は光葉をベッドに寝かせた。


 光葉は相変わらず荒く息を上げて苦しそうにしている。


「先輩、私、死ぬんでしょうか……?」

「死ぬもんか。俺のために毎日味噌汁を作ってくれるんだろ?」


 ん、と光葉が言葉を詰まらせる。


 それから、えへへ、と笑った。


「あー、そうでしたねぇ。じゃあきっと、私、大丈夫ですね。先輩、ここまでしていただければ十分です。もうあとは眠っておけば治りますから」

「そんなわけないだろ。ちゃんと薬とかも飲まなきゃ。病院にも行ってないんだろ?」


 光葉が潤んだ瞳で俺を見上げ、小さく頷く。その額は汗ばんでいて呼吸も荒く、苦しそうだった。


「でも……病院へ行こうにも外出できそうになくって」

「だから、そういう時は俺に連絡しろって。メッセージも送っただろ。とにかく今日は休んで、病院は明日だな。俺が付いて行ってやるから」

「ですが先輩はお隣さんというだけで……そこまでしてもらう理由はありません」

「何バカなこと言ってるんだよ。おせっかいならお互い様だろ」

「先輩……」

「ほら、食べたいものとかあったら何でも言ってみろ。もしくは、俺に出来そうなこととか」

「それなら……お風呂で汗を洗い流したいです」

「ああ分かった風呂だな俺に任せておけ―――え?」


 今、なんて?


 風呂?


 風呂って言ったか?


 フローの聞き間違いじゃないよな? フローとライムでヒップとホップなラップってわけじゃないよな?


「お風呂場に……行くのも怠くて……」

「あ、ああそうだよな。任せろ。とりあえず風呂を沸かしておけばいいんだな?」


 俺が訊くと、光葉は我に返ったように口に手を当てた。


「……わ、ご、ごめんなさい。お風呂なんておかしいですよね。さすがに甘えすぎちゃいました。忘れてください、先輩」

「あ……ああ、うん」

「お風呂で湯船に浸かるのは諦めますから、代わりにシャワーを浴びさせてください」

「そ、そうか、まあ、さすがに風呂っていうのは色々アレだしな。シャワーくらいなら」


 ……いや。


 風呂もシャワーもそんなに変わらない気がするけど!?


 しかし目の前の光葉は本当に苦しそうで、俺は何が何でも光葉にシャワーに浴びさせなければならないような気がした。


 何も邪な気持ちを抱く必要はない。


 病気で苦しんでいる人が目の前にいて、その人がシャワーを浴びたいと言っているのだからその望みを叶えてやるだけだ。


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