第20話
※
「猫の手です、糖場先輩。お野菜を切るときは猫の手なんですよ!」
「ね、猫!? こ、こう!?」
「そうです先輩! こうです!」
帰りの電車。
俺の両隣に座る光葉と糖場は、俺を挟んで二人でにゃーにゃー言っている。行きがけの電車とは正反対な光景だ。
まあ、仲直り――というか、二人の親睦が深まったのならそれで良いか。女子どうしのケンカなんて偏食である俺どころか犬も食わないだろう。
「ちょっと私には難しいかも~。どうやったらお料理、上手になるの?」
「心配しないでください、最初から上手な人なんていませんよ。そうだ、良かったら今度私の部屋に来ませんか? 一緒にお料理をしましょう」
「えーっ! いいの?」
「もちろんです。一人より二人の方が、きっと楽しいですよ。お出汁の取り方も教えてあげます。お味噌汁に入れると一味違って美味しさが増しますから」
「本当!? 教えて教えて!」
俺を挟んでの会話は続く。
とはいえ料理の話題ばかりで俺にはあまり興味がなかった。
目的地の駅まではまだ十数分ある。少し眠っておこう。日頃オンラインゲームで寝不足なのもあるし。
そう思って目を瞑った瞬間、電車が大きく揺れた。
驚いて目を開けるのと同時に、左側から柔らかく弾力のある何かが衝突して来て、その反動でバランスを崩した俺は右側――つまり糖場の方に倒れこみ、彼女の太ももに顔を埋めるような格好になってしまった。
「す――すまん、糖場!」
焦りの中で必死に手を伸ばし、ちょうど触れた場所を支えに身体を起こす。
隣を見ると、糖場が顔を赤くしたまま固まっていた。
「め、召野くん……」
「わざとじゃないんだ。今の揺れでバランスを崩しちゃってさ」
俺が必死の弁明をしていると、糖場は首を横に振った。
「そうじゃなくて、ほら、後ろ……」
「え?」
振り返ると、糖場より一段と赤くなった光葉の顔があった。
そしてその胸元には――俺の手が。
一瞬遅れてその柔らかさと感触が伝わって来た。
「せ、先輩―――ななな何してるんですか!?」
「う、うおおおおっ!? す、すまん! わざとじゃないんだ!」
俺が光葉の胸から手を放すと、光葉は俺から距離を取るように身を引いて、非難がましいまなざしで俺を睨み、言った。
「先輩のえっち!」
「いや違うんだ今のは不可抗力というか!」
「声でかいって、メッシー……」
糖場が俺の脇を肘でつつく。
周囲を見ると、乗客の皆様が唖然としたような顔で俺らを見つめていた。いつの間にか注目を集めてしまっていたらしい。
ごほん、と俺は咳払いをして、席に座りなおす。
そうして俺らは電車から降りるまでの十数分間を、とてつもない気まずさで過ごしたのだった。
※
それから数日後。
いつものように中庭で弁当を食べていたある日のことだった。
「おばあちゃんが少し体調を崩したらしくて、熱が出ているそうなんですよ」
「え? おばあちゃんって、この間の?」
「ええ。会ったときは元気そうでしたけど……最近風邪も流行ってみたいですからね」
「それは心配だな。お見舞いとか行かなくて大丈夫なのか?」
俺はたまごやきを齧りながら訊いた。
卵と砂糖の甘い風味が口いっぱいに広がる。
「ですから、今日から2、3日の間、おばあちゃんのお家に帰ろうかと思ってるんです。明日も、学校はお休みしようと思います。看護休暇というやつですね」
「そうか。おばあちゃん、早くよくなると良いな」
「ええ。でも私、ひとつ不安なことがあるんです」
そう言って光葉が俯く。
「不安?」
「私がいない間、先輩がちゃんと朝ご飯食べるかなって……」
光葉の深刻な顔を見て、俺は思わず苦笑した。
「そんなに心配するなよ。大体、俺は光葉に会う前はずっと自分で朝食を準備していたんだぜ」
「でも、せっかく先輩の食べられるものが増えているのに、私がいない間に元の偏食で偏屈で変態な先輩に戻っちゃうんじゃないかって」
「偏食なのは認めるが、その後の二つについては否定させてもらおうか」
「先輩、私がいない間もちゃんと朝ご飯、食べてくださいね。いつまでもぐずぐず寝ていてはいけませんよ。それから、お昼用にお弁当も作っておきますから」
「余計なことは気にするなって。おばあちゃんの看病に集中してくれ。俺に出来ることがあったら協力するから」
俺が言うと、光葉はきょとんとした表情を浮かべた。
「……先輩」
「なんだ?」
「悪いものでも食べました?」
「いや――最近は光葉の料理くらいしか食べてないが」
「ああ、そうですね。なるほど、美味しい食べ物には人を優しくする力があるのかもしれないですね」
「どういう意味だよ」
「いえ、出来ることがあれば協力するなんて前向きな言葉、先輩から出てきたとは思えなくて」
「何言ってるんだ、俺は元々思いやりに溢れた粋でクールなナイスガイだぞ」
「……確かに、私にお昼ご飯を分けてくれたりしましたからね。さっきのは冗談ですよ。先輩が優しい人だというのは、私、よく知ってます」
「あ――あ、そう?」
そんなにはっきり言われると何だか恥ずかしい。
褒められるのには慣れてないからな、俺。
「うーん、でも心配です。先輩、私がいない間はまた栄養バー中心の食生活に戻っちゃうと思います。やっぱり後で作り置きを持っていきますね!」
「だから心配いらないって」
「いえいえ、そうしなければ私、先輩のことが気になっておばあちゃんのことに集中できません!」
「……大変だな。無理はしなくていいからな、光葉」
俺の言葉に訝しげな視線を向ける光葉。
「先輩――なんか今日は妙に優しいですね。何かあったんですか?」
「え? いや、何もないよ。元々俺はこういう人間なんだって」
ちょうどそのとき、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
教室戻りますね、と言いながら光葉が立ち上がる。
「ああ、おばあちゃんによろしくな。それから、光葉も体調気をつけろよ」
「えー? どうしたんですか先輩。優しすぎて怖いですよ」
光葉ははにかんだように笑った。
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