第19話
※
「着きました、ここです」
駅から歩いて十数分。
光葉が立ち止ったのは、古い民家の前だった。
それは田んぼ沿いに立ち並ぶ古い家屋の中の一軒で、まさに田舎のおばあちゃんの家という感じだった。
庭木や鉢植えで丁寧に飾られた小さな庭を横切り、光葉は慣れた手つきで引き戸の玄関の脇にあるチャイムを押す。
ブザーが鳴り、屋内から物音がして、少し待つと中から引き戸が開かれた。
「あらぱせりちゃん、よく帰って来たわね!」
白髪交じりの、初老の女性だった。
自家製の味噌を漬けているという話から、もっと腰の曲がったようなヨボヨボの老人を想像していたけれど、それよりもずっと若い。
「元気にしていますか、おばあちゃん?」
「当たり前よ。ほら上がって上がって、お友達も。こんなところによく来たわねえ。初めまして、光葉ぱせりの祖母です。すぐお茶を用意するからね」
光葉のおばあちゃんに案内されるまま、俺らはリビングに通された。
廊下は飴色で、古い家の匂いに交じって蚊取り線香の香りがした。
リビングは冷房が効いていて、画面の大きなテレビでは時代劇が放送されている。
とりあえず椅子に座って待っていると、おばあちゃんがお茶を人数分持って来てくれた。
「暑かったでしょう。今日は特に暑いからねえ」
「ああ、はい、そうですね……」
俺は曖昧に笑いながら返事した。
ふと隣を見ると、糖場も同じように曖昧な笑みを浮かべていた。
この曖昧な笑顔こそ、コミュ障の最大にして最後の手段である。こういう顔をしていれば、知らない人を相手にしていたとしても何とか乗り切れるのだ。
俺は笑顔のまま、グラスに入った麦茶を飲んだ。冷えていてちょうど良い。
「お味噌を取りに帰ってくると聞いてはいたんだけれど、まさかお友達も一緒だなんて。言ってくれていればもう少し家も片付けておいたのにねえ」
台所から戻って来たおばあちゃんは柔和な笑みを浮かべながら、テレビの前のソファに座った。
どうやらそこが定位置らしい。
「おばあちゃん、私、お味噌取ってきます。物置の方ですか?」
俺の向かい側に座っていた光葉が不意に立ち上がる。
「和室の仏壇のところに準備してあるわよ」
「分かりました!」
ぱたぱたと足音を鳴らしながら、光葉がリビングから出ていく。
テレビでは悪事が明るみに出た悪代官が主人公たちに追い詰められているシーンだった。
「お茶のお代わりはいかがかしら?」
「い、いえ、大丈夫です」
「そう……。ごめんなさいね、あの子がお友達を連れて来るなんて初めてのことで、私もどうすれば良いのか分からないのよ」
おばあちゃんは一気に麦茶を煽った。
「お、お構いなく、大丈夫ですから」
糖場もそう言いながら、震える手で麦茶を一気に煽る。
こ――これはヤバい。
光葉がリビングからいなくなったことで、全員が緊張している第一世界大戦直前のバルカン半島みたいな状態になってしまった。
時代劇の台詞だけがリビングに虚しく響いている。
気まずい。
何とかしなければという使命感の元、俺は口を開いた。
「ええと、その、なんというか、プライベートの光葉さんってどんな感じなんですか?」
隣で糖場がむせ始めた。
しまった、焦ってアイドルの囲み取材をする記者みたいなことを訊いてしまった。
「プ、プライベートって……週刊誌じゃないんだから……」
糖場が笑いをこらえるように全身を震わせている。
一方でおばあちゃんは、真剣に悩み始めてしまった。
「ぱせりのプライベート……ぱせりのプライベート……」
「いや、そんな真面目に考えなくて大丈夫ですから! 思いついただけの質問ですから!」
「そうねえ……明るくて良い子よ。ご飯もいっぱい食べてくれるし。元気に育ってくれて本当に嬉しいわ」
「ええ、そうですね、元気に……」
元気という言葉で俺は、光葉の胸を連想していた。
うん、確かに元気に育っている。
「こうしてお友達も来てくれるんだから、学校のことも心配なさそうね。安心したわ。一人暮らしなんて大丈夫かしらと思っていたのよ」
「そこはもう、間違いなく大丈夫ですよ。俺も一人暮らしなんですけど、いつも光葉さんに食事を世話してもらってます」
「あら」おばあちゃんが驚いたように目を丸くする。「あらあら、そうだったの」
「……な、なんでしょうか?」
「それってつまり、そういうことよね? あららら、ごめんなさいこんな適当な格好で。言ってくれていればもっとちゃんとした準備を――」
え?
ど、どういうことなんだ!?
「説明しよう! 普通の女子高生は男の子に毎日ご飯を作ってあげるなんてことはしないのである!」
「と、糖場!?」
「要はそれ、アレだよ、召野くん。毎日ご飯作ってもらってるっていうのは同棲的な意味合いになっちゃうんだよ」
「な、なんだって!? いや違うんですよおばあさん。実は俺、重度の偏食で光葉がそれを治すために――」
「どうしようかしら。今のうちに式場を押さえておいた方が良いかしら」
「違うんですって! 別に俺と光葉さんはそんな関係じゃないんですって!」
俺は思わず立ち上がった。
おばあちゃんは愉快そうに笑い声をあげた。
「いいのいいの、分かっているわ。あの子、良い子だけど思い込みが強いところがあるからね」
「は、はあ……?」
「うちの子が迷惑をかけてごめんなさいね。あの子に付き合ってくれてありがとう。でも良かったわ。それだけ心を許せる人がいるということだもの」
「いえ俺はただ、光葉さんの作った料理を食べているってだけですから……」
飯を食うだけで感謝される世界が、ここにはあった。
いや、重度の偏食である俺にとっては、食事という人間に不可欠なタスクがかなりハードルの高いものになってはいるのだけれど。
「ごめんなさい、まだあなたたちのお名前も聞いていなかったのにこんな話をしちゃって。歳を取ると気配りが出来なくなっていけないわ。私は光葉わさび。光葉の祖母です」
「ああ、ええと、俺は召野偏で、こっちは糖場です」
「糖場亜弥です。光葉さんとは……まあ、友人? ってことで良いんだよね、召野くん」
「そこは光葉に訊いてくれよ……」
「あなたたちが今日来てくれて本当に安心したわ。あの子の親代わりとしてね」
親代わり?
……そう言えば、光葉から両親の話を聞いたことがない。
何か事情があるのだろうか。
と、そこへ光葉が戻って来た。
「みなさん、お待たせしました。えっと―――はい、糖場さん。これが、おばあちゃんが漬けてくれた味噌ですよ。先輩がどうしてもと言うので差し上げます」
手提げ袋を糖場に突きつける光葉。
味噌の容器か何かが入っているのであろうそれを、糖場が受け取る。
「うん、ありがとう。私、美味しいお味噌汁が作れるように頑張るね」
「どうでしょうね、確かにお味噌は一級品ですがそう簡単に美味しいお味噌汁が出来るようになるとは――」
言いかけて、光葉が何かに気が付いたように糖場の手を凝視した。
「光葉さん、どうしたの~?」
「その指、どうされたんですか?」
「これね。お野菜を切る練習してたらちょっと切っちゃたんだよ~。私、料理とかしたことなかったからさ」
「そう……だったんですか」
光葉が俯く。
「……大丈夫、光葉さん?」
そう言って糖場が光葉の顔を覗き込んだ瞬間、光葉は勢いよく顔を上げた。
「ごめんなさい糖場さん! 私、勘違いしていました!」
「か、勘違い?」
「正直私、糖場先輩のこと誤解してました。私と先輩の仲を引き裂こうとする泥棒猫みたいなタイプだと思ってましたけれど、私が間違っていました! 料理のために努力する人に悪い人はいません! 悪いのはむしろ、そんな糖場先輩を一方的に敬遠していた私の心です!」
「光葉さん……そんな、気にしないで。お味噌を分けて欲しいっていう私のお願いを、こうして聞いてくれたじゃない」
「しかし――この愚かな光葉ぱせりは――ううっ、糖場先輩っ!」
光葉が糖場の胸に顔を埋める。
よしよしとその頭を撫でる糖場。
そしてその光景を、涙を浮かべながら見つめる光葉祖母。
何だこれ。
いったい何なんだよ、これ!
女性陣の空気感について行けなかった俺は、心の中で虚しく叫ぶしかなかった。
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