第10話
「本当にそんな効果があるのかよ」
「騙されたと思って一口飲んでみてください。飛びますよ」
「え、大丈夫なのこの味噌汁。後になって尿から変な物質が検知されたりしない?」
「大丈夫です大丈夫です。私も毎日やってます。探知犬にもバレませんから」
本当に大丈夫なんだろうか。
一抹の不安を覚える俺だったが、先ほどから漂う食欲をそそる匂いの元こそ目の前の味噌汁なのだ。
とりあえず一口くらいなら……。
俺は意を決し、お椀に口を当て味噌汁を一口だけ啜った。
その瞬間。
脳の奥で何かが弾けるような感覚と共に今まで俺の全身を覆っていた倦怠感が吹き飛んだ。同時に、胸の奥で燻っていた暗い気持ちが晴れていき、代わりにどこからか明るい感情が湧いて来た。灰色だった世界が色づいていくようだった。俺という存在は地球上でとても小さいけれど唯一確固たる自我があって、同様に存在する数十億の自我の中に小さな宇宙があり、それぞれが銀河系とつながっているのだということを本能的に理解しつつ神の実在を確信したのだった―――。
「……ぱい、……んぱい!」
「え、おっぱい?」
「先輩のえっち!」
殴られた。
が、おかげで正気に戻った。
気が付けば俺はちゃぶ台の前に座っていて、先ほどまで目の前に広がっていた虹色の世界は消えていた。
目の前には右手を振りぬいた体勢の光葉がいる。
「……一体俺はどうなってたんだ?」
「お味噌汁を飲んだ瞬間、なんだか先輩の様子がおかしくなったんです。私が何回呼んでも反応してくれなくて、ようやく返事してくれたかと思ったら……」
「ああ、悪かったな。正直言ってこんなに美味い味噌汁を飲んだの初めてだったから、つい」
「ふつうは味噌汁飲んでラリッたりしません!」
「本当にこれ、味噌汁なのか? 疲労がポンと飛んでいくような薬物が入ってたりしないよな?」
「しません! 私が作った特製のお出汁を入れているだけですっ!」
光葉が頬を膨らませる。
「そうか、それは失礼した。でも本当に美味かった。感動したよ、俺」
「本当ですか? いきなり褒められるとちょっと疑わしいというか、でもやっぱり褒められると嬉しいというか!」
困っているような喜んでいるような、微妙な表情を浮かべる光葉。
「しかし、目が覚めるというのは嘘じゃなかったんだな」
俺はもう一口味噌汁を啜った。
旨味とともに、味噌汁のぬくもりが身体中に染みわたる。
もう二度寝したいとは思わなかった。
「でしょう? 具のわかめやお豆腐からも美味しさが染み出ていますし、お味噌もおばあちゃんの手作りですから栄養満点です!」
「なるほど、この味噌汁に凝縮された栄養を摂取したことで俺の脳が覚醒したというわけだな。それなら納得だ」
俺は光葉の顔を見た。
その瞬間、光葉がぎょっとしたように目を見開いた。
「せ、先輩……」
「なんだ?」
「死んだ魚のようだった先輩の目が、穢れを知らない子どものようにキラキラしてるんですけど……!?」
「え? どういうことだよ」
俺は立ち上がり、洗面台で自分の顔を見た。
――――なんじゃこりゃ!?
昭和の少女漫画みたいな目になってるじゃないか!
「すごいですね……これがお味噌汁の効果ですか」
「いや、なんか効きすぎてる気がするんだけど。っていうかこれ元に戻るの? 一生こんな目は嫌だぜ、俺」
「大丈夫です安心してください先輩、先輩の死んだ目はお味噌汁の一杯くらいじゃ生き返りませんから」
「おいそれどういう意味だよ」
「ほら、お味噌汁を食べたら食欲が増して来たんじゃないですか? 白ご飯も冷めないうちに食べてください」
光葉に促され、再びリビングへ戻る。
確かに今なら白ご飯も食べられそうな気がした。
ちゃぶ台の前に座り直し、箸を手に取る。
そして茶碗に盛られた白米を一口――食べた。
「……!」
「どうですか、先輩?」
光葉が顔を傾け、俺の顔を覗き込む。
「う、美味い」
「当たり前です! 私の愛情がこもっているんですから」
「これが――愛か」
「感情を失くしたモンスターみたいなこと言わないでくださいよ」
「じゃあ目玉焼きの方もいただいてみるか」
俺は次に目玉焼きへ箸を伸ばし、ふと手を止めた。
「食べないんですか?」
「えーと、目玉焼きなんてずいぶん久しぶりに食べるから忘れていたけど、確かこれって調味料を掛けたりして食べるんだったよな?」
「ほう、目玉焼きに追加の調味料ですか」
「何をかけてたかな。確か家では……マヨネーズ?」
「先輩」
「どうした?」
「マヨネーズも元々は卵ですよ。卵料理である目玉焼きに、原材料が卵のマヨネーズをかけるなんておかしくないですか? ここは醤油一択でしょう」
どんっ、と光葉がちゃぶ台の上に醤油のボトルを置く。
「……ああ、まあ、そうだよな。確かに、卵に卵をかけるなんておかしいよな。俺の勘違いだったかも」
「そうですそうです、マヨネーズなんて邪道です」
「あっ」
「どうしました?」
「いや、よく考えたらマヨネーズじゃなくてケチャップだったかも」
「先輩」
「……何だ?」
「目玉焼きには醤油でいきましょう!」
光葉は有無を言わさぬ迫力で言った。
目玉焼きに何をかけるかという話題が彼女の何らかのスイッチを入れてしまったようだ。
俺としては醤油だろうがマヨネーズだろうがケチャップだろうがこだわりはなかったので、素直に醤油のボトルを受け取った。というか、マヨネーズもケチャップもあんまり好きじゃないし。
醤油を数滴たらすと、香ばしい匂いがした。
目玉焼きの白身の辺りを箸で切って一口食べてみる。
白身についた焼き目と醤油、それぞれの風味が合わさって絶妙な美味さだ。
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