第9話
「ところで本題ですが」
「うん」
「朝ごはんを作りに来たんです」
「……朝ごはん?」
「英語で言えばbreak fastです」
「朝ごはん?」
「ドイツ語で言えばfrühstückenです」
「朝――ごはん?」
「ウルドゥー語で言えば……」
「あ、いや、朝ごはんっていうのは分かった。俺が分からないのは、どうして光葉が俺に朝ごはんを作りに来たのかってこと」
「それはもちろん、先輩の偏食を治すためですよ」
「俺の偏食を?」
光葉が頷く。
その右手には、食材が入っているらしいエコバックが握られていた。
「この間、先輩はたまごやきを食べられるようになりましたよね? そこで私、思ったんです。召野先輩はもっと色々なものが食べられるようになるんじゃないかって。だから私が作った朝ごはんを先輩に食べてもらって、少しでも好き嫌いが減ればいいなって」
「なるほどな。気持ちはありがたいかもしれないが、遠慮しとくよ。俺には栄養バーと栄養ゼリーがあればそれで十分だし」
俺はドアを閉めようとした。
が、光葉の足が伸びて来て、それを防がれた。
訪問販売の営業か、こいつ?
「先輩、目の隈がいつもに増してひどいですね」
「明け方までゲームしてたからな。だから、こんな話をしている暇があるくらいなら少しでも寝ておきたいんだよ。というわけで、今日はこの辺で」
再びドアを閉めようとする俺。
しかし身を乗り出して来た光葉に止められた。
「その眠気を一瞬で晴らしてあげますよ、私の料理でね」
「ええっ、そんな料理があるんですか? でもお高いんでしょう?」
「それが奥さん今なら無料です。特別サービスで美少女のスマイルもおつけしますよ」
「ああ、それならぜひ――って言うわけないだろ。ほら、帰れ帰れ。俺は二度寝するから」
俺はもう一度ドアを閉めようとした。
「先輩」
「なんだ?」
「例えば私がここで大きな声をあげたとします。そうすればどうなるか分かりますか?」
「ご近所迷惑?」
「いえ、先輩が私に何か乱暴をしようとしたということになります」
「……待て待て、なんでそうなるんだ」
「痴漢冤罪という言葉を知っていますか?」
「知ってはいるが―――え、もしかして俺を痴漢に仕立て上げようとしてる?」
「このまま部屋に上げてくれないのであればそれもやむなしです」
「き、汚いぞ!」
「おっと、もたもたしていていいんですか? 先輩の運命は私に委ねられているも同然なんですよ」
「生殺与奪の権を他人に握られてる!?」
こうなっては仕方ない。
二度寝は諦めよう。
「で、どうするつもりなんですか?」
「分かったよ、上がれよ」
「わーい、おじゃましま―す! キッチンお借りしますね!」
光葉は軽やかな足取りで俺の部屋の中へ入ってくる。そしてそのままリビングへと向かった。
遠慮のないやつだ。
「余計なものに触るなよ、光葉」
「もちろんですよ。……へー、意外と整理されてますね」
「まあな。定期的に片付けてくれるんだよ」
「片付けて―――くれる?」
「ああ、妹が時々」
「へー先輩、妹さんなんていたんですか。意外です」
「よく言われる」
どちらにせよ、リビングにはちゃぶ台とクッションくらいしか置いていないわけだから散らかりようもない。
ゲーム用のモニターとかがあるのは、ベッドを配置しているもう一つの部屋の方だ。
そちらは散らかり放題のかなり無残な姿になっているが、すべては扉の向こう。光葉に見られることはないだろう。
「わあ、きれいなキッチン」
「使ってないからな」
「……あ、包丁とかまな板はあるんですね」
「一人暮らしするって決まったときに両親が準備してくれたんだ。別に使う予定があったわけじゃないし、必要性も感じなかったけど」
「ひょっとすると先輩のご両親は隣の部屋に住む女の子が料理をしに来てくれる可能性を察知されていたのかもしれませんね。なかなか先見の明があるご両親をお持ちですね」
「未来予知がピンポイントすぎるだろ……」
「では、この辺りの調理器具もお借りしますね。先輩は座って待っていてください」
「……ああ、そうさせてもらうよ」
俺はクッションを枕にして横になった。
キッチンの方からは、光葉が朝食を準備する音が聞こえる。
規則的なその音を聞いていると、睡魔が俺を襲って来て、いつの間にか俺は眠りに落ちていたのだった。
※
「……うわあ、熟睡しちゃってますね」
ん?
なんだ?
誰か他人の声が聞こえる……。
でも、まだ眠たい。
まあいいか、今日は土曜日。いつまで寝ていても問題はない。
俺は寝返りを打った。
床に寝ていることが少しだけ不思議だったが、強烈な眠気の前では些細な問題だ。
「うーん、ご飯、冷めちゃいますけど、起きてくれそうにないし……」
誰かが喋っている。
一体誰なんだろう。
いいや、別に。今は睡眠が最優先だ。
「それにしてもよく寝てますね。そうだ、私、人のおでこに『肉』って書くのが夢だったんですよ。油性ペンとかどこかにないかなあ」
起きた。
俺は身体を起こした。
「人をキン肉マンみたいにするつもりか、お前」
「あ、起きてたんですか先輩」
「不穏な言葉が聞こえたからな」
「な、なんのことですか? 私は別に先輩のおでこに『肉』と書くつもりなんてありませんでしたよ」
と、光葉は油性ペン片手に言った。
絶対嘘だ。
「……それより、料理はもう良いのか?」
「はい、完成です! 見てください!」
光葉がちゃぶ台の方を指す。
そこにはぴかぴかの白ご飯と湯気を立てる味噌汁、そして目玉焼きが並んでいた。
そのときになってようやく俺は、味噌のいい匂いが部屋に満ちているのに気が付いた。
同時に強い空腹感を覚えた。
まさか――身体が栄養バーで出来ていると言っても過言ではないこの俺が、味噌の香りで食欲を刺激されているというのか!?
感情がないはずのロボットが喜びを感じる瞬間というのは、こういう心境なのかもしれない。
「俺にもまだ――こんな欲求が残っていたなんてな」
「えっ……欲求? 男の人は毎朝そうなるというアレのことですか!? なんでいきなり下ネタ言ってるんですか、何言ってるんですか変態ですか!?」
「何言ってるのか分からねえのはお前の方だよ! なんで急にそんな話になるんだ! 朝食を前にして性的な興奮を覚える変態になった覚えはないぞ!」
「えっ、美味しそうな朝ごはんを見ると鼻血が出そうになりませんか?」
「変態はお前の方だぁぁッ!」
「という冗談はおいといて」
「冗談だったのか……てっきりマジだと思ってたよ」
「さあ先輩、座ってください。冷めないうちにどうぞ」
「あ、ああ」
俺は用意された朝食の前に腰を下ろした。
光葉が向かい側に座る。
「こうして誰かと朝ごはんを食べるのは久しぶりです。では早速、いただきます」
「ああ、いただきます……」
そう言いながら俺は改めて目の前の料理を見た。
白ご飯と味噌汁に、目玉焼き。
シンプルなラインナップだが、立ち込める湯気と香りが食欲をそそる――のだろう、普通なら。
事実、極度の偏食である俺でさえ空腹を感じるほどだ。
しかし――俺の箸は進まなかった。
そんな俺に気が付いたのか、光葉はお椀に山盛りになっていた白ご飯を口に運ぶ手を止め、言った。
「先輩、食べないんですか?」
「ああ……悪いがやっぱり食べられそうにない」
「どうしてです?」
「何度も言っただろ。俺は重度の偏食なんだ」
「え、白ご飯もダメなんですか?」
「ダメなんだ。独特な臭みがあるだろ?」
「えーっ!? それでも日本人ですか!」
「おっと、稲作が伝わって米が主食になったのはほんの3000年前なんだ。それ以前の日本人は木の実が主食だったそうだぞ。だから真の日本人なら木の実を主食とすべきだな。日本人=白米という認識を押し付けるのはやめていただきたいね」
「うわー、なんか先輩って食べられるものだけじゃなくて知識も偏ってそうですよね」
「シンプルな悪口だな……」
ちょっとだけ心が傷ついて、ちょっとだけ涙が出た。
「お味噌汁も食べられませんか?」
「うーん、具がなあ……」
「具ですか?」
「わかめとか入ってるじゃん。俺、海産物が特に苦手なんだよ」
「そうだったんですね。では、お汁だけ啜ってみてはどうですか? きっと眠気が吹き飛びますよ」
「眠気が? ……ああ、さっき言ってた眠気を晴らす料理って味噌汁のことだったのか」
「ええ、その通りです」
うんうんと頷く光葉。
そのわずかな上半身の動きだけで、彼女のはち切れそうな胸が揺れ――いや、なんでもない。
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