第7話
フライパンの上では卵が焼け始めて鮮やかな黄色になっていた。
食欲をそそる良い香りが立ち込めている。
「次はいよいよ卵を巻いていきますよ」
「よし、ええと……どうやるんだ?」
俺の言葉に光葉がため息をつく。
「やれやれ、これだから料理童貞は」
「料理童貞ってなんだよ……」
「そんな先輩のために、私がリードしてあげます。安心して身を委ねてください。先輩はただ、卵を焼いて気持ちよくなっていれば良いですから」
「卵を焼いて気持ちよく!?」
大丈夫か、それ。
異常性癖に片足突っ込んでないか?
「ちなみに私は……たまごやきの綺麗な焼き目を見ると、その……下品なんですが、フフ……」
怪しい声で言う光葉。
「やめろ、それ以上言うな! もっと自分の品位を大事にしろ!」
「さて冗談はこの辺りにして」
「冗談だったのか……いやむしろ安心したと言うべきか……」
「とにかく力を抜いてください。私が上手にやってあげます」
「あ、ああ」
「いいですか、いきますよ」
光葉が、菜箸を握る俺の手の上から彼女の手を重ねた。
それから、慣れた手つきで卵を巻き始めた。
俺は両手を光葉に操られるまま、その様子を眺めていた。
すごい。魔法みたいだ。
「先輩、残りの卵を入れてください」
「え? あ――ああ!」
光葉が俺の左手を放す。
俺は自由になった方の手でボウルを掴み、中に残っていた卵液をフライパンに流し込んだ。
じゅうっ、とフライパンから美味しそうな音が上がった。
「最後は先輩、ひとりで出来ますよね?」
光葉の声に顔を後ろへ向ける。
「ひ、ひとりで?」
頬と頬が触れ合ってしまいそうな距離にいる光葉に、俺は訊き返していた。
「大丈夫ですよ。さっき私がやった通りにやればいいんですから。それとも、まだ可愛い後輩のサポートが必要ですか?」
挑発するように俺を見上げる光葉。
「……よし、そこまで言うならやってやる!」
「見せてもらいましょうか、料理童貞の底力とやらを」
「料理の経験の違いが出来栄えの決定的な差でないことを教えてやる!」
卵は既に熱で固まり始めている。
これ以上放置すれば焦げ付いてしまうだろう。
躊躇っている暇はない。
たまごやきは焼いて巻いて四角くなってこそたまごやきだ。
できるはずだ。
俺は不可能を可能にする男だ。
うおおおおおおっっ!
※
「……まあ、初めてですから。うまくいかないのも仕方ないですよ」
「うう……」
光葉の部屋の、テーブル。
その上にはテレビのグルメ番組に出てきそうな見事な出来栄えの卵焼きと、スクランブルエッグのなりそこないみたいな卵の塊が並んでいた。
当然、光葉が作ったたまごやきが前者で、俺のが後者だ。
最後の最後で失敗してしまった……。
「気を取り直して食べてみましょうよ、先輩。そもそも今日はたまごやきを食べるためにここへ来たんじゃないですか」
「それはそうだけど……」
「なんですか、初体験に失敗した処女ですか。いつまで引きずるつもりですか。誰だって失敗しますよ――って、先輩の場合処女じゃなくて童貞か」
「余計なお世話だよ」
「もう、食べないなら私、先に食べちゃいますからね」
光葉はそう言うとたまごやきに箸を伸ばした。
「……え、そっちは俺が焼いた方じゃ」
ぐずぐずのたまごやきが一切れ、光葉の口へと運ばれていく。
その直後、光葉は幸せそうな笑みを浮かべ、言った。
「美味しいですよ、先輩! ふわふわです!」
「ほ、本当か?」
「本当です。ほら、先輩も食べてみてください!」
光葉に渡された箸で、俺も失敗したたまごやきを一切れ齧った。
甘さと卵の風味、そして見た目からは想像できない柔らかい食感。
「う……美味い」
「ね、そうでしょう!」
光葉は花が咲くように笑った。
俺も思わず頬が緩むのを感じた。
きっと中途半端で気持ち悪い笑顔になっているのだろうが、今は別に気にならなかった。
「絶対に失敗したと思ったけど」
「料理は見た目じゃありません。美味しく食べるのが大事なんです。私が作った方も食べてみてください。ほら、あーん」
光葉が綺麗な方のたまごやきを箸で摘まみ、俺の口へ押し込む。
暖かい甘さが口いっぱいに広がった。
「……美味いな」
「これが出来立てのたまごやきです。ふわふわで美味しいでしょ?」
「ああ」
「お昼ご飯をいただいたご恩は返せましたね」
「……そういえばそんな話だったな」
つまり、もう今日のように光葉が弁当を作って来てくれたりたまごやきを食べさせてくれたりすることはないってことか。
たまごやきが食べられないのは少し残念な気もするが、いつもの日常が俺に戻ってくるだけだ。そう残念がる必要もないさ。
そんなことを考えながら、光葉とくだらない会話を続けていると、いつの間にかたまごやきを食べ終わっていた。
夜ごはんも食べていきませんか、と光葉は誘ってくれたのだけれど、普段は栄養バーばかり食べている俺の胃はすでにたまごやきでいっぱいになっていた。
俺は光葉の誘いを断り、自分の部屋に戻った。
※
翌日。
俺は鳴り響く玄関のチャイムの音で目を覚ました。
いったい何事だろう。
寝起きでぼんやりしたまま、俺は玄関を開けた。
「おはようございます先輩!」
音量調節の上限を振り切ったような大声が飛び込んでくる。
「み……光葉?」
見れば、華奢で巨乳な制服姿の女子高生が、タッパーを片手に立っていた。
「せっかくお隣さんなんですから、起こしに来てあげたんです! はい先輩、これ、食べてください」
そう言って光葉は俺にタッパーを渡した。
片手じゃ持ちきれない、重箱みたいなタッパーだ。
「これ、何なんだ?」
「開けてみてください。きっと先輩、喜びますよ」
言われるままタッパーの蓋を開ける。
その中には、超巨大な黄色い物体がわずかな隙間もなく鎮座していた。
「……まさかこれって」
光葉がにっこりと笑って答える。
「はい、たまごやきです!」
※
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