第3話


 俺の視線に気づいた光葉は小首を傾げる。


「どうしたんですか、先輩。食べないんですか?」

「いや、ほら……落としちゃったから」


 と、俺は歯型と土がついた栄養バーを光葉に見せた。


「あらー、かわいそうに」

「……原因はお前だけどな」

「え? どういうことですか?」


 光葉は箸を咥え、困ったような表情で言う。


「いや、もういいよ」


 後輩からの突然の告白に動揺して栄養バーを落としてしまったなんて、恥ずかしくて言えたもんじゃない。


 あーあ、今日も昼飯抜きか。


「あの、召野先輩。本当に食べないんですか、私のお弁当」

「何度も同じことを言わせるなよ。俺は尋常じゃない偏食なんだ。食べないんじゃなくて食べられないの」

「そうですか? その割にはさっきから物欲しそうにこっちを見てるようですけど」

「物欲しそうに?」

「ええ。だって先輩、唇のはしっこから涎が垂れちゃってますよ?」

「なん……だと……!?」


 慌てて口元を拭うと、確かに涎らしきものが付着していた。


 まさか目の前の料理に身体が勝手に反応して――!? 嘘だろ、俺!?


「がまんできなくてお汁が零れちゃった感じですかぁ? 節操のないお口ですねぇ」


 ふふふ、と小悪魔的な笑顔を見せる光葉。


「誤解を招くような発言はやめろ。大体、節操がないと言えばお前の方だろ」

「失礼ですね。私はユニコーンだって乗りこなせるほどの純情な乙女ですよ」

「どうかな。だったらその第一ボタンはなんだ?」

「第一ボタン?」


 何言ってるんだろうこの人とでも言いたげな表情で、光葉は自分の胸元を見下ろす。


 直後、光葉は耳まで赤くしながら叫んだ。


「ど、どどどどどうしてボタン開いてるんですか!?」

「知らねえよ! 自分でやったんだろ!?」

「先輩が不思議なパワーで開けたんじゃないんですか!? 童貞って魔法が使えるらしいですし!」

「それは30歳過ぎても童貞だった場合の話だ――っていうかなんでお前がそんなこと知ってるんだ! 純情な乙女はどこへ行ったんだよ!?」

「うわー、最悪です! 多分3時間目の体育の後で着替えたときからずっとこうだから……ええい、こうなったらやけ食いです!」


 ばくばくと弁当を食べ進める光葉。


 かと思えば、急にその箸が止まった。


「どうした?」

「の……のど、つま……」

「ああ、喉に詰まったんだろ。慌てて食べるからだ。ちょっと待て」


 俺は光葉が持ってきた水筒の中の液体をカップに注いで光葉に渡した。


 砂漠を彷徨い続けようやくオアシスに辿り着いた旅人のように、俺が渡した飲み物を一気にあおる光葉。


 次の瞬間。


「熱湯じゃないですかっ!」

「白湯なんだろ?」

「この場合一緒です! 殺す気ですか!」

「仕方ないだろ、この場に飲み物といえばこれしかなかったんだから」

「まったく……口の中火傷しちゃいましたよ。こういうひどい目にあったときはご飯を食べるに限りますね」

「まだ食べるのかよ……っていうか、もう弁当も食べ終わっただろ。諦めろよ」

「……え?」


 再び、何言ってんだこの人みたいな顔で俺を見る光葉。

 その膝の上には新たな弁当箱が載っていた。


「お前、いくつ弁当箱持って来てるんだ?」

「少なくとも予備は用意しています。成長期なんですから」


 成長期、という言葉に思わず俺は光葉の胸へ視線を遣っていた。


 なるほど、成長期か……。


 おっと、いけないいけない。後輩女子のおっぱいを凝視するなんて分別ある青少年である俺がするようなことじゃない。


 俺は光葉のはちきれんばかりの胸から目を逸らし、深呼吸した。


「分かったよ、好きなだけ食べればいい。俺は教室に戻るから」

「えっ、戻っちゃうんですか?」

「ああ。別にもう用事もないからな」

「そうですか……」


 光葉が俯く。


「まあ、一応弁当のお礼は言っておくよ。ありがとな、光葉。それじゃ」


 そう言い残し俺はその場を立ち去ろうとした。


 しかし、背後から制服のシャツを掴まれ、俺は立ち止らざるを得なかった。


「待ってください、先輩」


 振り返ると、光葉が弁当を片手に俺を見つめていた。


「なんだよ。まだ俺に何か用か?」

「最後にひと口だけでも食べていきませんか、私が作ったたまごやき」

「たまごやき?」

「先輩、私がお弁当を食べているところをガン見してましたけど、一番視線を感じたのが、私がたまごやきを食べていたときだったんです。だから、たまごやき好きなのかなあって」

「まさか。卵なんて嫌いだよ。知ってるか? 鳥類は卵と糞尿を排出する器官が一緒なんだ。そう聞くと食欲なんてなくなっちゃうだろ?」

「……卵のこと、詳しいんですね。そう言えばさっきも卵の話をしていましたよね? 海外じゃ生卵を食べないとか」


 そうだったっけ?


 言われてみれば、そんな気もする。


「だとしてもそれがどうしたんだよ。どちらにせよ、俺が卵嫌いなことに変わりはないだろ?」

「いいえ、違います!」


 光葉が俺に箸を向ける。


 その先端にはしっかりとたまごやきが掴まれていた。


「……何が違うんだよ」

「昔、偉い人は言いました。『好きの反対は無関心』だと」

「あれ、『愛の対義語は嫌いではなく無関心』……じゃなかったっけ?」


 はあー、と光葉がため息をつく。


「今、私が良いことを言おうとしているんですから最後まで聞いてください」

「ああ、ごめん」

「昔、偉い人は言いました。『好きの反対は無関心』だと」

「そこからやり直すのか……」


 俺が呟くと、光葉は敵を威嚇する肉食獣のような鋭い目つきで俺を睨んだ。


 ごめん、ちょっと黙っとくね。


「つまりですね、先輩が本当に卵のことを嫌いなら、卵のことなんて何も知らないはずです。ですが、あなたは卵のことを詳しく知っている。ということは、心のどこかでは卵が好きなんじゃないですか?」


 え? 


 なんか話がすり替わってる気がする……。


「ええと、それで?」

「だからたまごやきなんです! つべこべ言わず私の作ったたまごやきを食べてください、いや、食べなさい、というか食え! 食い残すなよ! ついでに悔いも残すなよ!」

「ま、待て、やめろ、そんな無理やり―――ぐあああっ!」


 光葉が俺の口にたまごやきを捻じ込む。


 卵特有の臭みと砂糖や醤油の独特な風味が俺の口の中に広が―――あれ?


「どうですか、先輩?」

「ま……不味くない」


 俺が言うと、光葉は得意そうに鼻を鳴らした。


「ふっふーん! 当たり前ですよ、私がまごころこめて手作りしたたまごやきですから!」

「卵の妙な臭みもないし、調味料のしつこい後味も感じない。すっきりとした甘さだ」

「でしょでしょ! 私の愛情を感じるでしょう!?」

「いやそれは分からないが……」

「あ、そうですか」


 それにしても驚きだ。


 超がつくほどの偏食な俺が、他人が作ったたまごやきを食べることが出来た。


 しかも意外と美味い。


 昼食を食べなかったことによる空腹感の影響だろうか。


 ……とはいえ。


「まあ、でも、あれだな。弁当だとどうしても冷めちゃってて食感とかが微妙だな」

「うわあ、先輩って料理に難癖つけないと気が済まないタイプですか? グルメ気取りですか? 愛読書は美味しんぼですか?」

「正直な感想を言っただけだ」

「ふーんそうですか。なるほどなるほど」


 光葉は考え込むように腕を組んだ後、言った。


「放課後、もう一度中庭に来てください。出来立てのたまごやきを食べさせますよ」

「その台詞、愛読書が美味しんぼなのはお前の方だろ……え、今なんて?」

「聞こえませんでしたか? ではもう一度言いますね。放課後、中庭に集合ですよ、先輩」


 ちょうどそのとき、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。


「もうそんな時間か」

「では先輩、しばしのお別れです。また放課後お会いしましょう」

「あ、ああ? わ……分かったよ」


 反射的に俺はそう答えていた。


「いいですか、絶対ですよ!」


 そう言い残して立ち去ろうとした光葉を、俺は呼び止める。


「光葉、待て」

「なんですか? あ、もしかして私とのお別れが寂しくなっちゃたんですか? もう、寂しがり屋さんですねぇ」


 小悪魔的に笑う光葉。


「いやそうじゃなくて」

「じゃあ何なんです?」

「第一ボタン、いつまで開けとくつもりなんだ?」


 俺の言葉を聞いて、はっとしたように胸元を見下ろす光葉。


 慌てた様子でボタンを閉めながら、真っ赤な顔をした光葉は俺を睨む。


「先輩のえっち!」




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