第2話


「まあ、落ち着けよ光葉。落ち着いて素数を数えるんだ」

「えーと、1」

「1は素数じゃないぞ、光葉」

「今はどうでもいいですよ、素数なんて! とにかく先輩、私のお弁当を食べてください!」


 そう言って再び光葉は俺に弁当箱を押し付けた。


「一体どういうつもりなんだ、これは」

「最初に言ったじゃないですか、昨日のお礼です!」

「余計な気を遣うなよ! 別にいらないんだ、お礼なんて!」

「いいじゃないですか! 女の子の手料理は地球上の全思春期男子の憧れでしょぉ!?」

「それは偏見だ!」

「もう! そこまでいうならこっちにも考えがあります!」


 と、光葉は勢いよく俺の隣に腰かける。


 そして箸を取り出すと弁当箱の蓋を開けた。


 おにぎりやたまごやき、その他色とりどりの料理が鮮やかに詰め込まれている。


 光葉はその中からタコの形に切られたウインナーを箸でつまむと、俺の眼前に掲げた。


「な――何をする気だ!?」

「私が食べさせてあげます。ほら先輩、あーん」

「だ、ダメだ!」

「何がダメなんですか? ……あ、もしかして女の子にあーんしてもらうのが恥ずかしいんでしょ? クール系かと思ったら意外と可愛いところあるんですね、先輩」


 うしし、と勝ち誇ったような笑みを浮かべる光葉。


 だが。


 そういうことじゃない。


「だ――だからやめろ! やめてくれ!」

「そんなに恥ずかしがらなくていいじゃないですか」

「恥ずかしいわけじゃない!」

「うそでしょ」

「うっ、いやまあ、全然恥ずかしくないわけじゃないけど、それだけが理由じゃないんだ!」

「だったら何ですか!? 女の子に手作りのお弁当をあーんしてもらってるのに何が不満なんですか!」


 ぐっ、と光葉が距離を詰めてくる。


 少し汗ばんた光葉のおでこが目の前にあった。その瞬間、嗅いだことないような甘い匂いがした。シャンプーの香りだろうか。無意識の内に視線を下へ向けた俺は、不服そうに俺を睨む光葉の茶色い瞳と長いまつ毛、そして――そして、ブラウスの開いた胸元から覗く白い谷間を、見てしまった。


「うっ!?」


 動揺した俺の手が光葉の手に当たる。


 彼女の手から箸が離れウインナーが宙を舞う。


「―――!」


 タコの形をしたそれは火星へ帰るかのような弧を描きながら、見事に俺の口の中へチップインした。


「あ――だ、大丈夫ですか先輩? 急にどうしたんですか?」

「い、いや、なんでもないよ」

「なんでもないわけないじゃないですか。顔色が真っ青ですよ」


 俺の顔を覗き込みながら光葉は言った。


「だ、大丈夫だ、心配するな」

「ウインナー、変なところに入っちゃったんですか? 飲み物もありますよ」

「じゃ、じゃあ、それ、貰っていいか?」

「もちろんです。どうぞ」


 光葉はミニサイズの水筒からお茶を注ぎ、俺に渡す。


 俺はそれを一気に飲んで―――。


「熱湯じゃねえか!」

「白湯です!」

「この場合一緒だ!」


 くそ、口の中がプロミネンスだ。


 だが――ウインナーはなんとか飲み下すことができた。


 俺は右手で口元を拭った。


「……本当に大丈夫なんですか、先輩?」

「ああ。口を火傷した以外はな」

「しょうがないじゃないですか! 白湯だってあんな風に飲まれるつもりはなかったと思いますよ!?」


 あんた白湯のなんなのさ……。


「まあ、とにかく、弁当はもう良いから」

「お腹でも壊しちゃったんですか? 顔色も悪いですよ」

「いや……食えないんだ」

「食えない? 食べられないんですか? アレルギーですか?」

「そうじゃない。基本的に俺は栄養食しか食べないんだ」

「……まさか、過去のトラウマで手づくりのご飯を食べられなくなったとか?」

「違うんだ」

「じゃあ、何ですか?」

「偏食なんだ」

「え?」


 俺は正面から光葉を見た。


 納得いかないと言いたげな表情を前に、俺は言った。


「単純に、嫌いな食べ物が多すぎるんだ……」


 からんからん、と地面に落ちた箸が転がる音がした。





 小さい頃、俺は何でもよく食べる子どもだったという。


 それなのに、いつの間にか重度の偏食になってしまっていた。


 例えばウインナーなら脂っぽさが苦手だとか、魚なら生臭さが嫌だとか、野菜なら植物特有の苦みが耐えられないとか、ありとあらゆる食べ物が嫌いになった。


 そして高校に入って独り暮らしを始めたのをきっかけに、俺はブロック状の栄養食と栄養ゼリー、ときどきサプリメントの錠剤という食生活を送るようになったのだった。


「……というわけで、別にアレルギーとかトラウマというわけじゃないが、とにかく栄養食以外の物を受け付けられない身体なんだ、俺は」


「なるほど、それは大変ですね」


 ばくばくと勢いよく弁当を頬張りながら、光葉は言う。


 本当によく食べるやつだな。満腹中枢どうなってるんだ。


「だから、手作り弁当は遠慮しておくよ。お礼の気持ちは分かったから」

「そうですか……。勿体ないですね。こんなにおいしいのに」

「価値観は人それぞれだろ。たとえば日本じゃ卵を生で食べたりするけれど、海外じゃ衛生上絶対にそんな食べ方しないって国もあるからな」

「へー、博識ですね」

「……っていうかお前、それ、落ちた箸じゃないのか。そのまま使って大丈夫なのか?」

「安心してください、これスペアです。私はいついかなる時でもご飯が食べられるように、予備の箸を持ち歩いているんです」

「準備の良いやつだな……」

「私は常に用意周到なんです。ところで先輩、お名前を聞いていませんでしたね。一体どこのどなたなんですか、あなたは」

「俺は召野偏。ご覧の通り二年生だ」

「では、召野先輩。先輩もお食事中だったんじゃないですか? お弁当は食べられなくても一緒にご飯を食べることはできるでしょう? 一緒に食べませんか、お昼ご飯」

「ん? ……ああ、そうだな。そのくらいなら」


 そういえば俺も栄養バーを食べかけだったと思い出し、それから俺の足元に転がる食べかけの栄養バーを見つけた。


 ああ、つい手が滑って落としちゃったんだよな。


 一口齧っただけだったのに。これじゃ昼飯は抜きだな。


 そう考えた瞬間、強烈な空腹感に襲われた。


 昨日の午後は空腹との戦いだった。昼飯を食べなかったせいだろう。今日もまた同じ思いをするのかと思うとげんなりした。 


 ふと隣を見る。


 ちょうど光葉はたまごやきを口に運ぼうとしているところだった。


 艶やかな黄色をしたたまごやきを頬ぼった光葉は、幸せそうな笑みを浮かべる。


「うーん、おいしーっ!」


 その様子を見て、俺は思わず唾を飲み込んだ。


 ……え?


 まさか俺、あのたまごやきを美味しそうって思ったのか?


 つい数分前、重度な偏食で栄養食なんか食べられないという設定を披露したばかりの俺が?


 いや、まさか。


 俺は美味しそうという感情を失くした男だ。


 そのはずだが―――つい、光葉が弁当を食べる様子を見つめてしまっていた。


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