第一章
1-1 柔らかく揺れたひとつ結び
「ねぇっ、
白を基調とした無味な学習室は、窓の外を満たす漆黒に迫られて、まるで深海に沈んでいるかのようだ。
講義の終わりを告げる、軽薄な電子音。
それとともに椅子を引く音が響き渡ると、塾生の子たちが一斉に立ち上がった。
そして、なぜかその喧騒を押しのけて、唐突に教壇へと駆け寄る満面の笑みがひとつ。
我が国随一の最高学府を目指している彼女は、今年の春からこの塾に通うようになった高校二年生だ。
柔らかなショートカットが可愛らしいが、その目はずいぶんと大人の様相をしている。
身を包んでいるのは、都内有数のお嬢様学校の制服。
そして、その上には、秋らしい淡い
なにを企んでいるのか、やっと最後の講義を終えて家路へ就かんと急ぐ僕の袖を掴んで、彼女はそれをパタパタと揺らしつつわざとらしいえくぼを見せた。
努めて笑顔で返す。
「えっと、どうしたの? 湊さん。キミが先生?」
「はいっ! えへへ、わたしの小説、ついに書籍化されたんですっ!」
「へぇ、そういえば、いつかそんなこと言ってたね。えっと……、あれだよね? なんか小説投稿サイトですごくPVが伸びてるって言ってた、あれ」
「はぁ……、なんでそんなにテンション低いんですか」
よく耳にする『小説投稿サイト』というのは、インターネット上で自作小説を公開できるサービスを提供するページのことだ。
ほとんどの投稿サイトは無料。
無数のユーザーと膨大な投稿小説を抱えた巨大なものもあれば、個人が管理しているごく小さなものまで様々。
書いている『物書き』たちも、まったくの素人からプロの作家まで多種多様だ。
当然、それらの作品の中には、著しく人気を博して注目を集めるものも現れ、時として出版社から『書籍化』のオファーがなされることもある。
「あーあ、もう……、なんかシラけますね。ずいぶん前に教えてあげたのに、萩生先生、やっぱり読んでないんですね?」
「え? あ、読んだよ? 最初のほうだけ」
「最初だけぇ? すっごく人気があるのに」
その人気度を計るひとつの指標が、『PV』と呼ばれる数値。
これは『ページビュー』の略で、その作品のページがインターネット越しに閲覧している読者から何回開かれたかをカウントしているもの。
たいていの小説投稿サイトにはこの『PV』カウントの機能が備えられていて、自分の作品のウケ具合を察したり、読者が人気作品を探したりする目安として使われている。
「ごめん」
「ま、いいですけど。で、昨日ついに発売になったんでー、萩生先生にプレゼントしてあげようかなーと思ってぇ――」
そう言い終わる前に、彼女は肩に掛けていたバッグをドスンとすぐ横の机に下ろすと、その中から恭しくそれを取り出した。
ニヤリとした彼女。
そして、くるりとこちらへ向けて差し出されたのは、ピンク色の背表紙が毒々しい一冊の文庫本。
つやつやのカバーにはセルアニメのような陽気なイラストが描かれていて、ずいぶんと長いタイトルが表紙いっぱいに乱舞している。
『
そういえば、彼女は元吹奏楽部だと言っていた。
ずいぶん前、まだ彼女がこの塾に通いだして間も無いころ、彼女から「小説を書くのが趣味で、インターネットの小説投稿サイトに作品を公開しているから読んで欲しい」と言われたことがあった。
一応、
その後、それが書籍になる予定だと聞いて、あのお粗末全開の文章がどうやって本になるのかと思いもしたが、やはりまったく興味は湧かなかった。
「えーっと……、ありがとう」
「うわ、すっごい嫌な顔しましたね。萩生先生って、国語教えてるけど小説なんて書けそうにないですしねー。あはは」
彼女が書いているのは、『ライトノベル』というジャンル。
その昔は、『ジュブナイル』などと言われていた。
読みやすい平易な文体と軽快なセリフ回しを使用し、いまだ心熱き若者の興味や冒険心をくすぐる物語が主流の小説。
純文学のような堅苦しさや難解さを排した、いわゆる少年少女向けの娯楽文学だ。
さらにはアニメのような扉絵や挿絵が付けられることも多く、ときには登場人物の姿形までイラスト付きで紹介されることもある。
したり顔で彼女が差し出した、その『ライトノベル』。
それを手に取った僕は小さく咳払いをして、それからわざとらしくならないよう柔らかな笑顔を返した。
「まぁ、そうだね……。僕には小説を書くなんて無理。いやぁ、すごいなー。これもらっていいの?」
「はいっ! なにかの参考にしてください。先生、見かけはまぁまぁなんだから、小説でも書いてもうちょっとピリッと冴えたらけっこうモテるかもしれませんよ?」
「いや、僕はモテなくていいし。えっと、まぁ、ありがとう。楽しく読ませてもらうよ。あ、後ろ、呼ばれてるよ?」
彼女の肩越し、教室の一番後ろにある出入口から別の女の子が顔を出して、「桃香ぁー、ママが来てるよー」と声を上げつつ手招きしている。
「あっ、すぐ行くーっ。先生、それ読んで小説の勉強してね。でわっ!」
そう言って胸を張った彼女はさっと右手を敬礼ふうに上げながら、制服のスカートをふわりとさせて颯爽と振り返った。
不敵な笑みはそのままだ。
「うん。来週からテキストが変わるから、間違えないようにね」
「はーいっ」
半身をこちらへ向けてひらひらと手を振りながら、机の間の通路を軽快に駆けてゆく彼女。
その後姿を眺めつつ、僕は小さく溜息をついた。
手元に目をやると、つやつやの文庫本の表紙が天井の照明を反射して真っ白に見えている。
『僕には小説を書くなんて無理』
嘘だ。
これ以上ないくらいの大嘘だ。
ある作家は語った。
『絶対に非難できない唯一の嘘の形は、自分自身のために嘘をつくことだ』
そうだ。
誰も僕を非難できない。
学生時代真っ只中の、あの日。
僕も同じように喜びに胸をはち切れんばかりにさせて、こうやって発刊されたばかりの自分の本を手に取った。
無心で書いた小説がとある出版社主催のコンテストで大賞を獲り、とんとん拍子に話が進んで、気がついてみればあっという間に書籍になっていた。
今とは違うペンネーム。
本名をもじってつけた、やや子どもっぽい名前。
きっとその名がこれから世間に轟くだろうと、独り安い歓声を上げた。
いま、その本は古本屋にすら見かけない。
「なーにが、フルートが伝説の武器だ」
腹立たしさが一周回って苦笑いになった。
パラパラとその本をめくると、真新しい書籍独特のインクの匂いが鼻をくすぐる。
懐かしい。
そうか。
彼女は『先生』か。
そう心の中でひとりごちたあと、僕はその本でポンと教卓をひと叩きして、それからややうな垂れて教室をあとにした。
塾があるビルの階段の窓から、僕が卒業した大学のキャンパスが見える。
見回せば、乱立するビルたちが背景を無味に取り囲んでいるが、この辺りはさすがにいまも学生街の様相を失わずにいてくれているようだ。
昼は陽に見下ろされて木漏れ日を学生の上に落とす並木たちが、夜でもちっとも寂しそうにならずに、そこらでゆったりとさざめいている。
残念ながら、僕が通った文学部は、この本館があるキャンパスの向こう、道を挟んだ南側にあって、ここからは見ることができない。
ふと我に返り、図らずもあの大学時代に一瞬思いを馳せたことに一抹の罪悪感を感じながら、僕はゆっくりと階下へ身を下ろした。
つい一年前までこのキャンパスを闊歩していたというのに、いまはまったく足を踏み入れることができない遠い世界のように見えてしまうのはなぜだろう。
社会人になったから?
自由がなくなったから?
いや、経済的余裕や、自立してすべての意思決定を自らできるということに鑑みれば、いまのほうが当時よりはるかに自由だ。
その答えは出ないものだと分かっているのに、僕はなぜかその思索を脳裏から追い出すことができないまま、逃げるように塾のビルを出た。
帰りも地下鉄。
学生時代は、このすぐ近くの学生アパートに住んでいた。
なかなか気に入っていた安アパートだったが、この大学の学生であることが居住条件であったため、卒業と同時に出ることとなった。
いまは、都内からやや距離がある、母の姉が世話してくれた隣接県の賃貸マンションに破格の条件で入れてもらっている。
僕の故郷は、さらに遠い。
関東ではもうずいぶん秋が深まったこの時期でも、あちらではまだ半袖で街を歩ける陽気。
いい街だとは思うし、夏に地元の県職教員採用試験を受験するために一度帰りもしたが、本当は将来的に帰ろうとは考えていない。
実を言えば、最近は帰省どころか母に電話するのさえおっくうに感じる始末だ。
大学で国文学を教えていた父が他界し、母との通話はその大部分が僕への帰郷の催促となったから。
地元の試験に臨んだのは、実はその『母親対策』の一環。
いかにも地元に帰る気持ちがあるかのように装う、どうしようもない、嘘だ。
十分ほど歩いて辿り着いた、大学と同じ名前の駅。
地下へと続く階段を下りつつ、その両側の壁を覆う真っ白なタイルがひんやりと夜を反射するのを眺める。
少し、肌寒い。
歩き終えたばかりだというのにややそう感じて、小脇に抱えていた安物のオータムコートを羽織った。
同時にホームに流れ込んだ、見慣れた地下鉄の列車。
コートに通したジャケットの袖先を引っ張り出しながら、僕はそそくさとそれに乗り込んだ。
もう帰宅ラッシュを過ぎた車内にはずいぶん空席もあったが、なぜか僕はすぐに座る気になれなかった。
非常に陰鬱だ。
その理由は朝からの体調不良も少しあるかもしれないが、大方は……、肩から提げたカバンが行きよりも文庫本一冊ぶん重くなっているせいに違いない。
ずいぶんと、器の小さい男。
しかもその小さい器は、我が事ながら呆れずには居られないほどに、『安い』。
こんな男が書いた小説を、だれが本気で読んでくれるものか。
いや、そういえばひとり居た。
今朝、僕宛てにメッセージをくれた、『たばなお』というまったく知らないユーザー。
返信をしなければと思い立ち、おもむろにスマートフォンを取り出す。
開いたのは、馴染みの小説投稿サイト。
見ると、僕の小説のPV数は昨日とほとんど変わっていない。
レビューがついたので少しは閲覧数が増えるかもと期待したが、まぁ、それが現実だ。
【ところで、異世界っていったい何なのでしょうか?】
朝も見た文面。
ねっとりとスマートフォンの画面に粘着しつつ、レビューを付けてくれたのはありがたいが、さて、この天然ボケみたいな問いになんと答えたらいいものかと、ゆらりと思いを巡らす。
しばらくして、やはりちゃんと腰を据えて書こうとサイトの返信フォームを閉じて、僕は別のメモ帳アプリに画面を占拠させた。
なんともやり切れない気分で下書きを始める。
どれくらい、そうしていただろうか。
文章を書き始めると、すぐに時間を忘れてしまう。
小さいころからの悪い癖だ。
たかがメッセージの返信だというのに、何度も何度も、書いては消してを繰り返す。
そうしていると、いつの間にか地下鉄はもう都心を通り越して、気がつけば闇夜の地上を這う電車へと変わってしまっていた。
見ると、不揃いな窓明かりたちが、まるで紙芝居を荒々しくめくるように車窓の外を飛び去っている。
我が家までは、あと少し。
そのときだ。
それは、画面から上げた僕の視界の端に突然飛び込んだ。
人影疎らな車内。
僕は相変わらず立ったまま。
いつからそこに居たのか、僕の位置からはやや離れた横長い座席の中央付近に、ひとりの女性が座っている。
いつも朝に見る顔。
そう、今朝も見た顔だ。
僕の駅のふたつ次の駅で乗ってくる、ちょっと地味な感じの女性。
肩ほどの黒髪を後ろでひとつ結びにしている。
仕事帰りだろうか。
今朝と同じ、ブルージーンズに柔らかなクリーム色のハイネックニットというカジュアルな格好。
それなのに、なぜか足元だけは朝のスニーカーと違って、スーツ用の低いヒールを履いている。
膝の上には大きなバッグ。
顔を上に向けて、目をつむっているようだ。
もしかしてと思って少し近づくと、なんともだらしなく
やはり、寝ている。
やや幼めの顔立ちだが、年齢は僕と同じか、もしかしたら少し上かも知れない。
この寝顔はご愛嬌ではあるものの、まぁ、女性としては完全に醜態だろう。
そのときふと、出入口扉の上の電光表示に目が行った。
彼女が降りる駅は、僕のふたつ手前。
次はもう、その駅だ。
これは……、起こしてあげたほうがいいのだろうか。
いや、今日は目的地が違って、まだずっと先まで乗るのかも知れない。
しかし、こんなに疲れているのなら、もし乗り過ごしてしまったらずいぶんショックだろう。
起こすべきか、それとも知らぬふりを決め込むべきか。
さて、どうしたものかと思案を巡らせ過ぎた僕はついに成す術をなくして、座っている彼女の正面に立ってつり革を持ったままその顔を覗き込んだ。
よく見れば、なかなか可愛い顔をしている。
しかし、この大口はちょっといただけない。
もう、電車が減速し始めている。
どうしよう。
要らぬ世話だとは思うが、どうもこのまま放置したら東の端の終点まで行ってしまいそうな熟睡ぶりだ。
よし、決めた。
やはり声を掛けよう。
僕は、左手で持っているつり革にぶら下がるようにして、右手でショルダーバッグを押さえながら、さらに彼女へと顔を近づけた。
そして、さぁ声を掛けようとした瞬間――。
「あ」
突然開いた、彼女の目。
ぼーっとしたまま、遠くを眺めるように僕の顔を見ている。
僕も顔を引くことを忘れて、放心したまま彼女の顔に見入る。
「ひっ」
そしてその瞳に光が戻ると、彼女は跳ね上がるようにハッとして、膝に抱えたバッグを抱き寄せて体をよじった。
「ななな、なんですかっ?」
「え? ええっと、その」
「ちょっ……、ちょっと離れてくださいっ」
「……はい」
僕はパッと身を起こして一歩下がると、それから左手を背後のつり革に持ち替えた。
彼女は一瞬僕を睨みつけたが、どうもよだれらしきものが口から滴ったのか、ずずっと飲み込みながら慌てて口元に手を当てている。
なんとも滑稽だ。
そして彼女はまた僕に視線を戻すと、今度はそのちょっとだけ可愛い瞳を大きく見開いて、
ずいぶんと紅潮した彼女の頬。
思わず返してしまった、どうしようもない呆れ顔。
彼女はその僕の顔を見て何か言いたげに口を開きかけたが、ちょうどそのときギギーッと重い地響きがして、体がぐいっと慣性から引き戻された。
開くドア。
立ち上がる人々。
彼女はまだ紅潮した頬のまま僕を睨みつけている。
僕は小さく溜息をついて、呆れ顔のままおもむろに彼女の背後を指差した。
「あのー、駅、違いますか?」
「ええっ?」
ハッと背後に視線を投げた彼女は、突然立ち上がって思い切り駆け出した。
シューっとドアが閉まる音。
ダダンッと音を立ててぶつかりながらドアを通過し、次の瞬間、彼女は辛くもその目的地のホームへと降り立った。
思わず笑みが出る。
逃げるように去る彼女。
電車が再び動き出す瞬間、改札へ下りる階段へと吸い込まれていく彼女の背中が見えた。
その背中の上で、柔らかく揺れるひとつ結びの黒髪。
これは、小説にするには面白い。
恋愛小説の出会いの場面。
ここで彼女が座席に交通系ICカードでも忘れていってくれれば、次のエピソードへの布石にすることもできる。
でも、僕の小説には電車は出てこない。
ICカードで乗れる乗り物も登場しない。
いつかまた、こんな滑稽な出会いから始まる人間模様でも書く気が起こったら、そのときはこの場面をふたりの出会いに取り入れてみようか。
そんなことを考えていると、ふと、塾を出たときに感じていた陰鬱な気分がきれいさっぱり消えていることに気がついた。
なるほど。
あの大口のおかげだ。
週が明けた月曜の朝、さて、彼女は同じ電車に乗っている僕を見てどんな顔をするだろうか。
「ビールでも買って帰るか」
そうして少々愉快になった僕は、彼女のなんとも愛嬌のある寝顔を思い出しながら、またスマートフォンへと目を戻したんだ。
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