ぬくもりは珈琲色 ‐物書きは嘘つきのはじまり‐

聖いつき

◇プロローグ

プロローグ  物書きの皮を被った物書き

【ところで、異世界っていったい何なのでしょうか?】

 都心へはまだずいぶん距離がある駅。

 ふわりと湧き上がった薄紅色の街並みを背景に、僕は音もなく座席へと腰を下ろした。

 電車がゆっくりと滑り出す。

 少し熱があるのだろうか。

 今日はやや体調が悪い。

 焦点の定まらない意識で何気に開いたスマートフォンが、大きめのロック解除音を立てた。

 思わず当惑して、平静を装いつつすぐにそれをマナーモードへと切り替える。

 そのとき目に飛び込んだのは、昨夜ベッドに横たわったまま開いていた、『小説投稿サイト』の画面。

 見ると、僕のユーザーページに一通のメッセージが寄せられている。

こうしゃさま、初めまして。『たばなお』と申します】

 実に丁寧な文言。

 呼ばれた『恒河沙』という名は、僕のペンネームだ。

 メッセージのぬしに、まったく心当たりは無い。

 小説本文のページを確認すると、この見知らぬ誰かは僕の作品に『レビュー』も書いてくれていた。

『類稀なる文章力が織り成す素晴らしき空想世界「異世界とんとうたん」 作者・恒河沙』

 文章作成に精通していると、一瞥しただけで判るレビュー。

 しかし、この高尚なレビューをつけてもらった僕の作品は、しがない塾講師の僕が大した熱も入れずに場当たり的に書きなぐっている、どこにでもある流行りの異世界小説だ。

 そして、いつもその僕の物語を読んでくれているのは、おそらく中学生から高校生くらいの少年少女が大半のはず。

「しかし、異世界が何かって……言われてもな」

 不意に独り言が出て、ハッと周りを見回した。

 車窓の外は、朝だと言われなければ夕日と見紛うほどの淡いコントラスト。

 僕より先に電車に乗り込んでいた客たちは、まるで鉛のコートを背負っているかのような猫背ばかりだ。

【あなたの作品、読ませて頂きました。まるでその場に居るかのような臨場感に圧倒されました。特に酒場のシーンは、むせんばかりの煙たさと、アルコールの濃厚な香りが眼前に湧き立っているようでした】

 主人公ら冒険者の一団が、魔王の居城へ向かうための水先案内人として、一筋縄では行かないだれの船頭をパーティーに引き入れようと画策する場面。

 魔王の言いなりの国王に仕える無頼船頭を、主人公が酒場で口説き落とす中盤の見せ場だ。

 どうやらメッセージの主は、よほど僕の小説を気に入ってくれたとみえる。

 やや褒めすぎのような気もするが、まぁ、こんなふうにストレートに高い評価をもらうのも悪くない。

 また、安い虚栄心がじわりと満たされていく。

 喧騒が消え、扉が開く音がした。

 開いた扉の向こうで、雨上がりのプラットホームがしっとりとしている。

 ふと、思わぬ賛辞にだらしなく口角を上げたりしてはいないかと、僕は突然我に返り、それからおぼろな背景の車窓に映ったその顔を見た。

 いつもどおりの間抜けづら

 その顔の下のライトブラウンのオータムコートは、おととい買ったばかりの安物だ。

 くたびれた紺のネクタイが、その安さをいよいよ強調している。

 透けた間抜け面の向こうに見え隠れする、背広姿の白髪頭や短いチェック柄の制服スカートたち。

 数多の『日常』がホームに響く発車のベルに溶けて、もうずいぶん少なくなった空席に滑り込んでいる。

 毎朝見る、同じ顔。

 初めて小説を書いたのは、あの女子高生と同じ歳のころ。

 まだ制服を着て自転車で学校へ通っていた少年が、まるで現実から逃げるように無心で綴った稚拙な物語たち。

 本当に楽しかった。

 書き綴ることが楽しくて仕方なかった。

 そして、故郷を出て都会の風に胸を躍らせ続けた大学時代の半ばまで、人と人との航跡が複雑に絡み合い、喜び、怒り、悲しみ、慰め合う、そんな人間臭さをありありと描く数々の物語を、僕は寝る間も惜しんで書き続けた。

 大学を卒業して一年。

 もうずいぶん、あのころのような物語は書いていない。

 いまでも書けるだろうか。

 しかし、それが書けたとして、そんな小説を一体誰が読みたがるだろうか。

 誰が、そんな重苦しい人間模様に興味を示すだろうか。

 そんなことを考えていると、今日もそのなんとも冴えないひとつ結びの黒髪女性が、制服の女子高生の隣、ちょうど僕の向かいの座席に腰掛けた。

 座るなりスマートフォンを取り出して、熱心にその画面に没入する。

 静まり返った車内に浸潤した発車のアナウンス。

 しばらく、そのひとつ結びの地味な姿を視界の端に残していると、その背後で轟音とともに鉄橋が消え去り、徐々に街並みが漆黒に飲まれて、やがて我々は地下を疾走する乗客となった。

 僕の職場である学習塾は、この路線で都心を越えた先、ずいぶん歴史のある大学のすぐそばにある。

 その大学を卒業して、いまの暮らしになってから僕が書いた物語といえば、いわゆる『異世界もの』ばかり。

 熱もなく、矜持も無い。

 だのに、なぜレビューの主は、こんなにも僕の小説を気に入ってくれて、そして、『異世界とは何か』と問うのだろうか。

 異世界は異世界だ。

 非現実なる、その世界。

 あくまで王道は、勇者が世界を救うために魔王に敢然と立ち向かい、そして平和を、愛する者を護るという冒険活劇。

 剣と魔法、そして伝説。

 神聖なドラゴン、邪悪な魔物たち。

 それは、殊更に説明をする必要も無いほどに普遍的に存在する世界観で、『異世界』と言えばそれはそれ以外の何物でも無い。

 僕自身は、そんなに好きでもなければ、こだわりも無い。

 ただ、異世界を書いてさえいれば、誰かが気に留めてくれる。

 たとえその物語が、僕が本当に求めているものをすべて表現してくれないとしても、それは僕に安寧をもたらしてくれる。

 そう、限りなく安い安寧だ。

 このメッセージの主は、まったくの予備知識もなく突然ふらりとこの小説投稿サイトへやって来て、そして僕の小説を気に留めてくれたのだろうか。

 あるいは、敢えて僕にその含蓄ある問いを投げて、何かを伝えようとしているのだろうか。




 それとも――。

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