教室はいつも通り賑やかで他愛ない話があちこちで飛び交っている。それをかき分けて窓側の席に座る。彼の方が先に来ていた。


早いじゃん、と言うと、

「普段と変わらないよ」

と彼は言うけれど、いや、いつもより早い。彼も浮き足立っているのだろう。

「じゃあ、計画通りに頼むよ」

彼はそう言って前に向き直った。


 1時間目の数学が終わる10分前、彼が突然立った。


「先生、お腹痛いので保健室行ってもいいですか」


先生は顔だけ彼の方に向けて、あぁ行っといで、と言った。さすが優等生。それなりに信頼を得ているから、先生も怪訝な顔をしない。少し屈んでさもお腹が痛そうに振る舞いながら、しれっとデイパックを持って教室を出ていく。そして私にだけ分かるように目配せをした。オッケー。次は私の番だ。


 2時間目は古文だった。期末考査の結果が早速返ってきた。国語系は得意なので、そこそこの点数があった。平均点が悪いことに対しておばちゃん先生がくどくど文句を言っていたが、私には関係ない話だったので心地よく聞き流せた。さて、問題はどのタイミングで出るかだ。彼みたいにある程度受けてギリギリの時間を狙うか、でもそうなると彼を寒い中外で待たせることになる。なるべく早く出てあげないと。でも、なかなか言い出せる機会が来ない。先生は絶え間なく話し続けている。途中で水を差せるような空気じゃない。板書している時がベストだ。彼女が背を向けて、黒板にカッとチョークを突き立てた時、先生、と声を出した。彼女がさっと振り返る。心臓がバクバクする。


あれ、私なんて言うんだっけ。えっと、誠也は確か、お腹痛いって言ったから、何か、別のことを……。


「あ、頭痛くって……保健室行ってきます」


思わず、言い切ってしまった。先生は、あ、どうぞ、とあっさりと認めてくれてホッとした。ズルして早退してる人ってこんな心理戦をしてるんだ。馬鹿にはできないな、と関心してしまった。デイパックを持って、後ろのドアから出る。よし、と小さくガッツポーズをした。


 保健室に行くと、養護教諭の先生が出迎えてくれた。

「あら、5組は体調不良者が多いのかしら」

とパソコンを見ながら言うので、そうかもですね、と適当に相槌を打つ。

「じゃあ、担任の先生に早退って連絡しておくから。親御さんに迎えに来てもらう?」

と聞いてきたので、全力で首を横に振った。そんなことしたら一巻の終わりだ。すると、

「あら、やけに威勢がいいわね。本当に頭痛いの?」

と勘ぐられ、苦笑いをした。

「まぁいいわ。おうちに帰ってゆっくり休みなさい」

と先生が穏やかな笑みを浮かべて言ってくれたので、心の中でありがとうありがとうと感謝しまくった。気をつけて帰るのよ、と彼女に見送られ、学校をあとにする。学校から駅までは徒歩10分だ。吐く息が真っ白で、彼のことが心配になった。こんな寒い中、小一時間も待ってくれているのだ。少しでも早く行かないと、とペースを上げて駅に向かった。



 *

 駅の椅子にぽつんと誠也がいるのを見つけて、おーい、と手を振った。平日の昼前ということもあって私達以外に人の姿はなかった。彼は私に気づくとよっ、と手を上げて立ち上がった。


「ごめん、待った?」

いや、全然、と彼は手をひらひらさせる。

「ここで待っとくから着替えておいでよ」

と彼はトイレを指差して言った。そういえば、彼はもう着替えていた。白いパーカーにネイビーのチェスターコート。ボトムは擦り切れたジーンズ。それからグレーのマフラーを巻いていた。何だか大人っぽい出で立ちだ。見慣れた学ラン姿の彼とはまた違って見えて新鮮だった。自分の服が入った荷物をぎゅっと抱えてトイレに駆け込んだ。


 個室に入って、鞄に詰めていた私服に着替える。せめてものおしゃれをと、自分でコツコツ貯めて買ったタートルネックのニット、お気に入りの服だ。下は細身のパンツ、学校用にも使っている厚手のコートを羽織って服の準備は整った。おかしくないか、トイレの鏡とにらめっこして、ほんの少しだけプチプラで化粧をする。彼は気づかないと思うけど。こういうことは他人に自分をよく見せるだけじゃなくって自分の意識を高めるためにも大事だと思う。いや、そもそもこれはデートじゃないけど。一人で勝手に恥ずかしくなってチークをしてもないのに頬が色づいた。いけないいけない。あとは髪型を整えて、準備完了。


 大きいと邪魔だろうから、という彼の提案のもと、デイパックをコインロッカーに預けて、身軽なショルダーバッグだけにしてから、彼のところに戻った。何か反応はあるのかなと思ったけれど、何もなし。まぁそんなものか、と思ったけれど、少しして彼に言われた。

「なんか寒そう」

彼は自分のマフラーを解いて渡してきた。

「使いなよ」

私、タートルネックだからもう充分あったかいんだけど。

「もしかして……ちょっと気取ってる?」

とからかってみるとこちらを見ずにフンと鼻を鳴らした。じゃあありがたく、と言って彼のマフラーを巻く。彼の温もりを肌で感じて、どういうわけか少し、嬉しくなった。

「電車が来るから、そろそろ下に行こっか」

電光掲示板を指差して、彼が歩き出した。そのあとに私もついてゆく。こうして、私達の逃避行が幕を開けた。



 *

 乗り込んだ車両には私達しかおらず、椅子に座って電車の心地よい揺れに身を任せていた。最初の目的地は3駅先。暫くはゆっくりできる。彼はスマホを見ていた。背もたれに深くもたれて彼の画面を見ていると、何か長い文章を見ているみたいだった。しかしそれを見ているかと思うと、ホームに戻ってぼーっとその画面を見ていた。彼のホーム画面は驚くほど簡素だった。恐らく初期から入っているアプリだけ。ゲームみたいなものが一つもない。


「ねぇ、ひとの画面見ないでよ」

突然言われて驚く。彼の画面が反射して私の顔を映していたのだ。

「ごめん。私スマホ持ってないから、ちょっと気になっただけ」

と誤魔化す。彼は顔をしかめたままスマホをポケットに入れる。それから、中吊り広告を見上げてぼーっとしていた。私も同じように活字に目を通す。こういう時、クラスの女子達だったら、彼にもっと積極的に話しかけるんだろう。別に面白くもないのに面白いとか言ったり、内心冷めているのに外っ面だけ爆笑していたり。あの子達も演じている部分はあるような気がする。でも、私はそこまで気が利くタイプじゃない。話したいことがないなら、黙っていたい。話なんかしなくったって、隣にいるだけで居心地がいいのだから。この人の前では、素直でありたい。嘘偽りのない、私らしくありたかった。


 目的地近くの駅に到着して、電車を降りた。高校の周りよりは栄えていて、人通りもこの時間帯にしては多かった。


「ほんとにさ、ここでいいわけ?」

と彼は今更ながらそんなことを言った。

「うん、ここがいいの」

と、私は言い切った。


 最初に彼が提案したのは遊園地だった。折角サボるんだからいつもは行かないようなところで遊んでみようよ、と彼は言ったのだが、私は乗り気になれなかった。まず遊園地は入るだけでも高い。あれだけお金を出したら、貧乏根性丸出しで1日中そこにいたくなってしまう。でも、今回の旅ではできるだけ沢山、いろんなことに挑戦してみたかった。そのプランでは遊園地は不向きだと思ったのだ。彼も理由には納得してくれたが、さすがに私が最初の目的地として提案した場所には渋い顔をした。でも、結局それが通ってしまったのだけど。


 最初の目的地はモール。服とか雑貨とかを見たいというわけじゃない。ここに来たのにはちゃんとした理由がある。館内図を見て場所を確認してずんずんと突き進んでゆく。彼がちょっと待ってよと後ろで言ったが、それを冷静に聞き取れないくらい、私は胸が高鳴っていた。客層は平日だからか老人が多い。幼稚園以下くらいの小さい子供を連れた親もちらほらいる。そんな中をかき分けて3階を目指す。


 着いた先はゲームセンター。ずっと憧れを抱いていた場所。幼い頃この前を通り過ぎる度に楽しそうに遊んでいる子達を見て羨ましく思っていた。でもあの人はこんなゲームをしてたら頭が悪くなる、と決めつけて一度もさせてくれなかった。でも、今は違う。私は、私の意志で、動くことができるから。タイルの色で区切られた境界に足を踏み入れた。


 思った以上にお店の中の音がうるさくってびっくりした。外からじゃそうでもないのかと思っていたけれど、中に入ると色々な機械があちこちで音を発していて、それらが重なって聞こえるせいでもう何が何なのか分からない。でも機械の近くに立つと説明は聞き取れたし、慣れてくるとそこまで不快に感じなくなった。お店をぐるっと回って、お目当てのものを見つける。クレーンゲーム、ずっとしてみたかったのだ。これやるの、と彼は驚いていた。

「誠也はこういうの、したことある?」

「いや、全く。ゲームセンターとか行く機会ないし。それに、こういうのってゲームで手に入れるより定価で買った方が安くつくと思うよ」

「分かってないなぁ、誠也は。こういうのをゲームで手に入れられるから楽しいんだよ」

「俺には分からんなー」

「ほんと君は捻くれてるね。こういうのは素直に楽しめばいいの、人生損してるよ」

と呆れて言ってやると

「いいですよ、俺は捻くれてるんで」

と彼は眉を上げておどけてみせた。


 ガラス張りのケースの中を覗き込んで、景品を見ていく。その中の一つの大きな柴犬のぬいぐるみに目がいった。

「これにしよ」

金額は1プレイ100円、6プレイで500円。6プレイの方がお得じゃないか、と思って躊躇いもせず投入口に500円玉を入れた。すると手元のボタンが点滅し始めた。

「それを押すんだと思うよ」

彼が隣から指差してきたので、促されるままに押すと、ガラスの向こうのアームがぶらぶらと移動し始めた。

「え、ちょっ、これ、どうすればいいの」

と焦っているうちにアームが下に下りてきて中の人形を掴む。お、いい感じかも、と思った瞬間、人形がぼとっとアームから落ちた。嘘でしょー、と大きな声を出してしまう。

「そんなもんだよ。1回で取らせたら商売にならないじゃないか」

と隣で現実的な意見を言われたけれど、気にしない。私なら行ける――




 と思ったけれど無理だった。5回やって全部人形を掴むところまではいけたけれど持ち上げる時に人形の重さで落下してしまうのだ。穴まで運べずに落ちたり反対方向に転がって遠くなったり……なかなかうまくいかない。

「ていうか、これ、アームも問題でしょ。4本脚ぐらぐらで全然ちゃんと掴めてないじゃん!」

「まぁそういうもんだよ、商売だから。それにぬいぐるみを全部アームで掴んだら普通荷重で落ちるよ。それなりにコツがいるんだと思うよ」

外野の声がずっとうるさい。とうとうラスト1回になってしまった。


こうなったら……


「じゃあ最後誠也がやってみてよ」

彼をボタン前に押し出した。

「え、でもこれ最後じゃ」

と彼が渋るので、

「どうなってもいいから、1回やってみて」

とダメ押しすると、彼は渋々前に出てきた。彼のプレイを、私は固唾を呑んで見守る。まずそろりそろりとアームを左に動かし、奥側へと移動させる。それからそーっと人形へと下ろすけれど……


「ちょっとズレてない?」

と口を挟んでしまった。彼は人形を真ん中で捕えず、なぜか奥の方でアームを下ろしたのだ。

「こうしたらさ、アームにタグが引っかかって釣り上げてくれるんじゃないかと思って」

「何それ、賢い」

彼の思惑通り、奥側の人形のタグにアームが通って、人形を釣り上げた。アームが穴の近くまで動いていく。あと少しで穴の上――


というところで、タグを通していた脚からタグがするっと抜けた。人形はバウンドして穴とは逆の方向に飛んでゆく。

「あちゃー」

二人してそんな声が出て、見つめ合って笑った。

「もう1回、する?さっき俺がやっちゃったからお金出すよ」

と彼が言ったけど断った。もう大満足だった。

「取れなくてもいいの。こういう遊びをやってみたかっただけ、できただけで満足だよ。500円分は確かに楽しませてもらったよ」

ふーん、それならいっか、と彼が言って歩き始めたが、ふと彼は立ち止まって私の方を振り返った。

「俺も瑞希のリアクションで楽しめたから、実質プラスじゃね」

いちいち反応が大袈裟で面白かったよ、と彼がにやけ顔で余計なことを言う。

「それどういう意味よ!」

「そのまんまの意味でーす」

この時間が楽しくてしょうがない。


【続】



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