翌日の放課後から、私達は周到に計画を練り始めた。二人だけで、ここから抜け出す、ただそれだけの計画だ。深い意味なんてない。現実逃避の行動型みたいなものだ。でも、それには私達にとって大きな目的があった。少なくとも私にとって、この計画の目的は反抗だった。私を閉じ込めたあの人に対して、それから私を閉じ込めていたこの檻、この小さな世界に対して、少しくらい、抗ってみたかった。1日くらい、いいじゃないか、その程度の反抗。とっても小さな、でも意義のある反抗だ。私はもう、あの人の思い通りにはならない。


 決行は12月2週目の金曜日に決めた。期末考査が終わった次の日だ。彼曰く、そこがベストな日なんだそうだ。どうして平日なの、と聞くと、彼は得意げに話し始めた。


「休日に用もないのに朝から出ていったら不審がられるだろう。それに俺たちには友達がいない」

「そんなにはっきり言わないでよ」

「まぁまぁ。親もだいたいそれくらいは察してるはずだから、となるとますます怪しまれる。こんなことで疑われてバレたら計画がパーになる。平日だったら、親たちは子どもは学校にいるものだと信じて疑わない。少なくともいつもの下校時刻までは、俺たちが無断でどこかに行ってるなんて気づかずにいてくれるってこと」

「でも、もし学校からお宅のお子さんが来てませーんなんて電話入れられたらどうするの。それこそ即バレじゃん」

「だからー、一応登校するんだよ。1,2時間目まで受けて、途中で腹痛いとか言って家に帰るふりするの。うちの高校早退しても電話かけないし、出席簿に書かれるだけだろ」


彼から、早退という言葉が出るだけで冷や汗が出る。早退なんてしたことなかった。ましてや欠席もだ。どれだけ身体に異変があろうと学校に行ったし、平気なふりをしていた。熱っぽくて頭がグラグラしても、授業を受けた。でないとあの人に何をされるか分からなかったから。それくらい私には未知の領域なのだ。私にとってはそんな些細なことが大罪に感じた。小さい頃に植えつけられたトラウマは、今もまだ私の行動を抑えつけている。その呪縛を解いてしまいたかった。


「分かった」

覚悟を決めて頷いた。すると、あと言いにくいんだけどさ、と彼は気まずそうな顔をした。

「二人同時に抜けたらさ、その……いろんな意味で怪しまれるじゃん……だからさ、俺が1時間目で抜けるからさ、瑞希はその次の時間で抜けてきてくれない?さすがに、いっぺんに行くと、その」

ともじもじしながら言う。彼の耳は赤くなっていた。多分クラスで流れている噂を気にしているんだろう。私までなんだか気恥ずかしくなってしまう。目を逸らして

「はいはい、りょーかい」

と軽く流した。

「じゃあ、駅集合で。制服で動くのもあれだし、私服持ってきてトイレで着替えよっか」

今日はこれぐらいで、と彼は帰る準備を始めた。

「君って、悪知恵も働くんだね」

と言ってやると

「俺は捻くれてるから、こういうことの方が頭が回るのかもね」

と彼はにやりと不敵な笑みを浮かべた。俺は捻くれてる、彼はよく自分のことをそう称する。照れ隠しで言っているようにも聞こえるし、自嘲のようにも思える。本当のところどうなのかは分からないけれど、彼と接していくうちに後者の方が近いんじゃないかと思い出した。彼には、私の知らない、何か深い闇があるような、そんな気がした。


 *

 翌週、私達はちょっとトラブった。


 発端は彼の提案だ。

「電車賃とか、難しかったらさ……俺が出してもいいよ」

彼なりに、貧乏な私に配慮して言ってくれたのだとは分かった。分かったけど、イラッとした。

「何、その言い方」

虫の居所が悪かったのだ。つい、彼にきつい言い方をしてしまった。

「そういうの、いやだ。……私の気持ちにもなってみてよ。親切で言ったつもりかもしれないけど、ただの偽善だからね?そういうの、私には要らないから」


それに、あんたが稼いだ金じゃないのに、出してもいいよとか何様のつもり、とも言いたくなったけど、流石に言い過ぎだと思いとどまった。ごめん、と彼が本当にすまなさそうな顔をしてくるので、居心地が悪い。


「私は、君との関係に後ろめたさを感じたくない。バイトしてるし、電車賃とかお昼代ぐらい、自分で出せるから、だから気を遣わないで」

そこまで言い切って、一息つく。沈黙が気まずい。

「ごめん」

感情的になり過ぎた。彼の折角の親切心を踏みにじったみたいで悪いことをしたと思った。

「いいよ、気にしてない」

彼は微笑んだ。

「それよりさ、うちの高校ってバイト禁止じゃなかったっけ」

「うち、小遣い出してくれないから自分で稼ぐしかないの」

と答える。

「いいなぁ、誠也は。お小遣いいっぱい貰ってるんでしょ」

気まずい雰囲気を変えようと彼を茶化した。

「まぁ、そこそこ」

彼は言葉を濁した。いいなぁ、とまた私は呟く。

「いいなぁ、誠也は恵まれてて」

何気なく放ったその言葉に、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。それから、力なく微笑んだ。

 その日は、そこでお開きになった。



 *

 あっという間に決行前日が訪れた。昼で試験が終わったため、私達は放課後残って、どこに行きたいか最後に話し合った。あーでもない、こーでもないと言っているうちにテストの疲れなんか飛んでしまっていた。彼との時間がとても楽しかった。ある時クラスメートが教室に戻ってきて、二人して急に黙って、それがなんだか面白かった。この時が、このままずっと続けばいいのに、そう思ってしまった。


 話が思いの外盛り上がって、家に帰ってきたのは5時過ぎだった。今日は母は昼から夜までパートのはず。まだ帰ってきていない、筈だった。明日のことを考えて浮かれた気分で玄関を開けると、リビングにはあの人の姿があった。


「ただいま」


一応いつも帰ってきた時に言うが、大抵の場合は無視される。彼女はぼーっと魂を吸い取られたような顔をして、テレビを見ていた。リビングの床には、相変わらず教育関係の雑誌が散らばっていた。毎回積んでいるのに、帰ってくるとだいたい崩れているのだ。菓子パンの袋もあちこちに落ちている。それを拾って片付けていると、彼女はテレビから目を離さないまま、私に言った。


「今日、早く帰るんじゃなかったの」


どきりとした。だが、動揺を悟られないように片付けを進めながら

「テストの後、残って勉強してたの。難しかったところの復習」

と返した。すると、彼女は、そう、とだけ言って、そこで話が終わり家のように思えた。でも違った。


「嘘でしょ」


彼女の冷たい声がした。手入れもしてないざんばら髪を振り乱して、彼女はこちらを睨みつけていた。

「あんた、母さんを裏切ったでしょ」

あぁ、また始まった。

「あたしがこんなに、こんなに尽くしてあげてるのに、どうしてあんたはあたしにそんなひどい仕打ちをするの。ねぇ、どうして」

と今度はしくしくと泣き出した。


いつもなら、ごめんね、ごめんね、と必死に謝って彼女を宥めるところだった。でも、今日はどういうわけかそんな気分になれなかった。面倒くさい。もう、どうでもいいや。そう思ってしまった。私は、雑誌を元の位置に戻してから、すくっと立ち上がった。彼女を見ると、何だかとってもちっぽけに見えた。なんだ、この人って、こんなに小さくて、惨めで、哀れだったんだ。ベソをかいている姿はまるで幼稚園児みたいで、あぁそういえば彼女がよく起こす癇癪も幼さを感じた。これまであれほど絶対的で逆らえないものに感じていたのに、何だか拍子抜けしてしまった。そう分かってしまった途端、何だか面白くなった。面白くって、口角が緩んだ。



「何よ、今の」

あの人は、それを見逃さなかった。

「何よ、ねぇ、今のは」

彼女の顔は歪んでいた。

「ねぇ何、あたしを馬鹿にしてるの」

充血した目をひん剥いて、いつもより一段と高い声を出していた。かさついた唇がぶるぶると震えている。

「あたしが大した学校行ってないからって馬鹿にしてるんだろ!」

違う、そんなつもりじゃない。誤解だ。そんなこと、思ってない――でも、もう彼女に制御は効かなかった。最近は一度激しい思い込みを抱えると勝手に悪く悪く考えて、私を悪者にして糾弾するようになった。この人はいつも被害者を演じるのだ。

「馬鹿にしてるんだ!そうに決まってる!」

と彼女は決めつけて、手当たり次第近くにあったものを投げつけてきた。リモコンが後ろの壁に直撃し鈍い音を立てる。

「違う、違うってば」

そう言っても彼女のヒステリックなキーキー声に全部かき消されてしまう。彼女は今にも掴みかかってきそうな勢いで立ち上がった。

「あたしはね!!あんたのために……あんたのためを思ってしてあげてるの!あんたのために、行きたくもない仕事に行って働いてるの!それなのに、何であたしが、侮辱されないといけないんだよ!何でおまえなんかに、そんな目で見られないといけないんだよ!ねぇ!!」


もう何も返す言葉がなかった。顔が、ふっと歪んだ。私も、もう抑えられなかった。


「またそうやって!あたしを馬鹿にして!!」


彼女は机を乗り越えて私に近づき、思いっきり手を振り上げた。




 弾けるような音がして、それから一拍おいて頬に強烈な痛みを感じた。彼女は、はたいた方の手を見て、呆然としていた。あの日以来、久しぶりのことだった。彼女はそのままよろよろと元いた場所に戻って行った。私も暫く動き出せなかった。


 その日は、明日の計画の準備を済ませて、早く寝ることにした。とてもじゃないけれど、起きている気にはなれなかった。電気を消して布団に入る。母と同じ部屋で寝ているので極力怒らせないようにと、彼女のベッドとは反対を向いて寝転がった。眠りたいけど眠れなかった。2、3時間は眠れないまま、ぼーっと天井を見つめていた。段々退屈になってきて私はカーテンを少しめくって夜空を見遣る。もう真夜中だというのに、街の光が明るくて星なんかひとつも見えない。ただまーっくらな空。希望なんてひとつもない。なーんだと思って布団に戻る。でも布団に潜ってから、気づいた。希望なら、ひとつだけあった。誠也――彼は、私の希望だ。胸の内でたったひとつだけ瞬いている星。彼の温もりを思い起こす。温かくて、優しかった。ああ、彼に早く会いたい。何もかも忘れて、彼と――その時、寝室の扉が開いた。彼女の影が伸びる。


「あたしはね、あんたのことが、だいっきらいだから」


彼女の低い声が真っ暗な寝室に響いた。


「あんたなんて、産むんじゃなかった」


そう吐き捨てて、彼女は戸を閉めた。真っ暗闇の中に独り取り残される。部屋が更に暗くなったみたいだった。じんわりと、ぶたれた時の痛みがぶり返す。この世界には、本当の温もりなんてなかった。それをやっと、私は認めた。枕元に滴り落ちる涙の理由が、私にはもう分からなかった。



 *

 翌日、目覚ましが鳴って起きると、既に彼女の姿はなかった。シーツにも体温の名残は残っていなかった。今日は早朝から出勤だったのだろう。彼女は大抵私が眠った後に寝室に来て、私が起きる前に家を出ていく。だから、朝だけが私にとって心落ち着く時間だった。


 温い布団から抜け出して、冷たい空気に身体を曝す。寝室を出て、まずはカレンダーを確認した。そこにはあの人のシフトが書き込まれている。昨日のシフトを見ると、確かに夕方まで仕事が入っていた。でも、翌週以降のシフトを見ると、昨日仕事の予定だった店のシフトだけ棒線で消されていた。パートをクビになったんだ。彼女がなぜ昨日あんなに苛ついていたのかも合点がいく。事情は分からないけど突然クビになって相当ムシャクシャしていたのだろう。そんな時に万が悪く私の帰りが遅かった。昨日叩かれたことにも納得がいった。


 リビングの机は珍しく片付けられていて、紙切れが端に置かれていた。


『みずきちゃん、ごめんね』


あの人のミミズが這ったような字。紙切れが飛ばないよう重し代わりに三角パックの豆菓子を乗せていた。彼女のせめてもの詫びのつもりなのだろう。もう、私の心には響かないけれど。あの人のことを綺麗さっぱり忘れてしまいたかった。何もかも放り投げて、どこか遠いところに行きたかった。私は決めた。もう、あの人の思い通りにはならない。今日の計画は、その決意表明だ。私はあの人に、宣戦布告する――。紙切れを握り潰して、屑籠に投げ入れた。ブレザーに着替え、デイパックを持った。そうして、玄関の扉を閉める。


 私は今日、この小さな世界から、逃げ出す。


【続】

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