あの人――私の母親は、学歴に対して異様なまでに劣等感を持っている人だった。彼女は偏差値の高い高校に通っていたのだが、大学入試で失敗して、三流大学と称されるところに行くことになったらしい。それを今でも根に持っているらしく、最近でも事あるごとに模試の判定とか、過去の栄光を自慢げに話す。それから

「あのとき失敗しなければ」

と嘆くまでがワンセットだ。結局彼女は就職にも失敗したのだが、それも学歴がどうのこうのと言っていた。


 確か、父親について聞いた時もそうだ。私は父親の存在を知らない。幼いながら、父がいないのは何かおかしいと気づいていた。それを母の気に障らないように聞いてみると

「あんたが腹にいるって分かった途端、逃げたんだよ、あの男は」

と忌々しそうに虚空を睨みつけながら彼女は言った。それから

「あたしが低学歴だったから、親族に紹介するのが恥ずかしいからって逃げたんだ、あいつは」

と泣きながら喚いていた。あの時は彼女の言った意味を理解できなかった。でも、今なら分かる。要するに、母は捨てられたのだ。それが学歴のせいなのかは分からないけれど、恐らくその件も彼女のコンプレックスを一層擽ったのだろう。そんな劣等感を抱えて生きてきた彼女は、私に優しく言った。


「瑞希ちゃんは、こんなふうになっちゃだめだからね」


調子の良い時や泣いている時、彼女は私のことを瑞希ちゃんと呼ぶ。イライラしている時はあんたと呼ぶ。昔も今も、あの人は変わらない。だけど、私は変わった。小さい頃は、瑞希ちゃんと言ってもらえた時幸せな気持ちになれた。でも今となっては心底気持ち悪いと感じている。


 彼女は、娘を自分のようにしないために、教育に力を入れ始めた。4歳の頃から英会話のラジオを聞かされていたし、四則演算のパズルなんかもやらされていた。彼女が言った通りにして、できたら褒めてもらえたけれど、できなかったらすごい剣幕で怒られた。機嫌が悪い時はぶたれたりつねられたりした。私を痛めつけた後、彼女は決まって泣き出す。それから、ごめんね、ごめんね、と私の身体に残った痕をさすり出すのだ。


「あんたのためなんだから――」


これも何度聞いただろうか。つい最近も言っていたような気がする。あなたのためだから、それは長らく、私にとっての呪いの言葉だった。


 あんたのため、彼女はそう言って、小学生・中学生と私に問題集を買い与えた。塾に入れるほどのお金はなかったのだろう。先生の授業は一回しか聞けないけど、問題集は何度でも解ける、彼女はそう言って、私は毎日ノルマ分のページ数を解かされていた。そのノルマはとても1日分の量とは思えなかった。でも終わらなかったらご飯んなしだ。だから空いている時間を見つけては問題集を開いた。あの人が仕事から返ってくると、すぐに答え合わせが始まる。あの人は赤ペンで丸付けをした。全部丸で当たり前。間違っていると、こんなのも解けないの?と怒られた。間違うたびに、ノルマが増えていく。それをこなすので精一杯だった。放課後なんてあってないようなもの、外に遊びに行った試しもなかった。

 友達も一人だってできなかった。いや、一度だけ、本当に一度だけ、できかけた。初めてクラスの女子から遊びに誘ってもらえて、今日1日くらい大丈夫だろうと母親に許可を取りに帰ったら、ダメ、とただ一言だけ言われた。なんで、としつこく肩をたたいて聞くと

「馬鹿が感染るかもしれないでしょう。あんまり学校の子と遊ばないようにしなさい。田舎の公立なんて、ろくな子がいない」

と彼女は私の手を払い除けた。それから、分かったらさっさと勉強して、といつもの勉強机を指さされ、私は渋々ドリルを解いた。翌日、その子にごめん、と謝ると

「別に、来ても来なくても良かったし」

とあっさり言われた。それからこうも。

「穂志さんがいると、つまんなくなるから」


私はそれ以降、彼女たちの輪に入れなくなって、あっという間に孤立した。


 中学生になるとすぐ、彼女は高校受験のことを私に言って聞かせるようになった。自分の体験談を夕食中ずっと語っていて、その時はどんなご飯でも美味しく感じなかった。部活にも入らせてもらえなかった。とにかく、3年後に向けて勉強しなさい、そればかり彼女は言い続けた。難問の寄せ集めのような問題集を延々と解く。終わりなんて見えなかった。寝る前までずっと問題と向き合う、そんな日々。でも辛かったかと言われるとそうではなくて、むしろよかった。考えることで、現実から逃げられたから。あの人のことも、そのときだけは忘れられたから。だから、がむしゃらに机に向かった。


 受験する高校は中1の時点で母が決めていた。県下トップの公立、それと滑り止めの私立。鳶が鷹を生むなんて、そんな事あるはずないのに。あの人は信じていた。もしかすると、あの人は自分自身が鷹だと思いこんでいたのかもしれない。だから、鷹の子は鷹、私を鷹だと本気で思っていたのかもしれない。

「滑り止めの高校に行くなんて、一生の恥だと思って勉強しなさい」

そう言われ続けた。私立もかなりレベルの高いところだったけれど、こんなところ受かって当たり前と彼女は言い切った。

 中3夏の模試の結果は公立がC、私立がB。学校の先生は塾にも通われていないのにこれはすごいですよ、合格圏内でしょう、と褒め称えてくれた。でも母親は納得しなかった。私が仕事に行っている間サボっていただろう、だからA判定が出ないんだ、そうに決まっている。懇談で掴みかかられ、先生に仲裁に入ってもらった。二人で歩いて家に帰る途中、彼女は泣いていた。

「あんたのことを思って、やっているのに。それを無下にして。なんて情けない」

私は鳶なんだ。鳶の子は鳶なんだ。よっぽど言ってやりたくなった。でも、私は何も言えなかった。彼女に逆らうのが怖かった。どうせ総て否定されるんだから、最初から歯向かわなければいいんだ――私はその頃から既に諦めていた。


 それから、彼女の勉強への圧力はより激しくなった。


こんなものができないとかどうかしてる、どうして覚えられないの?


彼女は私が解けなかった問題を見つける度、ヒステリックに喚き立てた。時折ぶたれもした。それでも私は泣けなかった。私が悪いのだから。必死に堪えて、寝る間も惜しんで勉強した。


 12月の校外模試の結果が両方A判定出た時、母が抱きしめてくれた。その温もりが優しくって、嬉しくって、私はこのために勉強していたのだと分かった。私にとって勉強はそのためでしかなかったのだと、そのとき気づいた。

 夜中に二人でコンビニスイーツを買いに行ったのが懐かしい。夜道は心なしか明るく見えて、シュークリームも特別な味がした。彼女のためにも、いい結果を残さなきゃならない、そう心に決めた。


 私立の入試は自分でも驚くほど上手くいった。結果は合格。授業料免除には届かなかったけれど、それでも母はよくやったと言ってくれた。

 だが、公立の入試で、私はとんでもない失態を犯した。その学校は県内統一の試験ではなく、学校独自の試験だった。その試験の数学の問題を見た途端、頭が真っ白になったのだ。どういうわけか分からないけれど、何も思い浮かばなかった。何もかもが頭から抜け落ちてしまっていた。そのまま、試験は終わった。母に手応えを聞かれた時、まぁまぁできた、と嘘をついた。実際は少しもできなかったのに。母は、後は結果を待つのみね、と優しく微笑んで、帰り際にお汁粉を買ってくれた。その優しさが申し訳なくって、私は今度こそ泣きそうになった。


 結果は不合格。

 覚悟はしていた。母と掲示板を確認して受験番号がないことに気づくと、彼女はさっと身を翻して早足で帰り始めた。私はその後を追って帰った。家について、玄関のドアを閉めると早々に彼女に頬をぶたれた。

「あんたのために、あんなに尽くしてあげたのに」

彼女は私を睨みつけてきた。彼女は涙目になっていた。泣きたいのは私の方だ。言いたかったのに、言えなかった。私は彼女にされるがままになった。もう殺されてしまってもいい、あの時は冗談抜きでそう思った。


 結局、罵倒され、髪を引っ張られ、首を絞められ、顔面を殴られ、お腹を蹴られても、死ぬことはなかった。体というのは思ったよりしぶといんだなと自分のことながら感心した。でも、一番痛みが堪えた日だった。あの時、死なせてくれたらよかったのに、今でも時折そう思う。

 それから3日間、なぜか彼女の方が寝込んだ。私には落ち込む時間さえ与えられなかった。彼女はご飯も作ってくれなかった。独りでコンビニに行く夜道は怖くて、青白い光が孤独を一層引き立てた。


 結局私は私立高校に通うことになった。学費くらい少しは自分で出せと言われ、貸与型の奨学金を申し込んだ。高校に入っても束縛は続いた。決められた時間に帰ってこないと彼女は怒鳴る。でも、痛いことはされなくなった。合格発表の夜が最後だった。周りの目を気にし始めたのか、それとも私に反撃されるのを恐れたのか分からないけど、心底安堵した。

 でも、入試のことを思い出す度、あの頃の記憶がフラッシュバックして胃が痛くなる。彼女にぶたれた時の痣は薄くなって消えたけれど、私の心は癒えてない。この傷は、これから先もずっと塞がらないままなのだろう。

 それに、母の束縛が終わったわけではない。相変わらず彼女は言葉で私を攻撃してくる。私を苦しめる言葉を、執拗に浴びせる。その言葉から、私は逃れられない。全身で、受け止めなきゃいけない。


――。


それは、本当に私の為だっただろうか。彼女なりの、優しさだったのだろうか。私にはもう分からない。それほど、私は傷つき過ぎてしまった。そういえば、優しい言葉なんかかけてもらったことあったっけ。思い返してみても、記憶にはなかった。大好きだよ、なんて聞いたこともなかった。私は愛されているのだろうか。あれは、愛だったんだろうか。分からない。分かりたくもない。知ってしまった瞬間に、私は『優しいお母さん』を二度と取り戻せなくなるかもしれないから。


 *

「――あの人は、そういう人なんだ」


誠也に総てを打ち明けてしまった。少し話し始めると止まらなくなった。次から次に辛い記憶が呼び起こされて、全部、全部吐き出してしまった。彼は私の話に相槌を入れるわけでもなく、話に茶々を入れることもせず、静かに聞いてくれた。私が全部話し終わった後、彼は言った。

「君のお母さんは……その、さ。毒親っていうの、なんじゃないかな。俺には、その……自分ができなかったことを子どもに叶えてもらおうとしているようにとしか思えない」

「分かってる、分かってるから。そんなこと言わないで」

私だって、あの人が異常なことくらい分かってる。分かってるけど……。

「私達は親子だから。親子だから、仕方ないの。受け入れないと、いけないの。でも、でも、その受け止めるだけの器が、今の私にはないの……もういっぱいなの。無理なの」

自分でも何を言ってるのか分からなかった。どうして彼にそんなことを言っているのかもよく分からなかった。

「分かった、分かったよ。分かったから」

彼は身を乗り出して、私の肩をさすって宥めてくれた。こんなに誰かに寄り添ってもらえたのは初めてだった。助けを求めた事自体初めてだった。彼の手の温もりが、あの時の母の温もりを塗り変えてくれた。この人に縋っていたい、そう思ってしまった。

 彼が肩をさすってくれると次第に落ち着いてきた。涙を袖で拭って、彼を見る。よかった、と彼は微笑んでくれた。聞いてくれてありがとね、といつもの調子で言おうとしたけど、掠れて変な声が出た。何それ、と彼は笑ってくれて、その笑顔に救われた気がした。彼と仲良くなれてよかったと思った。このまま、ずっと独りで抱えたままだったら、いつか心がパンクしてしまっただろう。感謝してもしきれない。夕日に照らされる彼はいつもより魅力的に見えた。


「ねぇ」

彼は肩肘をついて私を見ていた。


「おしゃれなこと、してみない?」


「おしゃれなことって、どんな?」


「たとえば、逃避行」


「いいじゃん、それ。楽しそう」


「一緒に、ここから逃げよう」


 私を唆す彼の目は淀んでいた。暗く、濁っていた。彼もきっと何かを抱えているのだろう、そう察した。

 誰だって決められた枠から抜け出したい時はある。誰かが作った窮屈な籠、いや檻。私はそこに閉じこめられていた。彼も何かに囚われているのかもしれない。たとえば、彼の家族のこととか。私は――何度も自由になりたいと思った。それなのに、ほんの少しの自由も許されなかった。でも、あの頃と今は違う。私だってもう高校生だ。いつまで経っても雁字搦めのままではいられない。皆にとっては簡単なことかもしれない、それでも私にとっては大きな――挑戦。今がその時なんじゃないかと思ったのだ。


「おしゃれなこと、したい――」

気づけば口を衝いていた。彼は微笑みを浮かべて、私の総てを肯定するように、ゆっくり頷いた。


【続】

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