彼――望月もちづき誠也せいやとの出会いは高校二年生の春、同じクラスになってからだ。第一印象は真面目そうだなぁという感じ。センターパートに細いフレームのメガネという、まさに優等生のテンプレートのような見た目。眼鏡の奥切れ長の目には凛々しさがあって、そして私達を突き放す冷たさも感じられた。学ランも着崩していないし、模範的で優等生だというのは間違いなさそうだった。でもありふれた中のひとりかというとそうではなくて、他のクラスメイトとは違う、独特な雰囲気を漂わせていた。

 一月した頃には、だいたい彼の素性が分かってきた。彼は無口だった。人と話すのも最低限だし、とりわけ誰かと親しそうに接しているところを見たことがなかった。友達もいるのかどうか怪しいくらい、単独行動が多かった。まぁ、私も彼のことは言えないくらい、クラスからは孤立していたが。ぼっちということで勝手に親近感を抱いていた。でも、彼と私は決定的に違うところがあるのだと、ある時知った。席の近くで、女子が群れて話していた時だ。


「望月くんってさ、ちょっと他の人とは違うよね」

「分かる、もうオーラが全然違う」

「勉強できるインテリ系だからってのもあると思うけど、なんかもっと違う意味で、近づきにくい感じしない?」

「それなー」


そんなこそこそ話に、寝たふりをしながら聞き耳を立てる。当の本人も私と同じように机に突っ伏していた。それが寝たふりなのかどうなのかは分からなかったけれど。彼の噂話を何となく聞いていると、ある言葉が私の耳に入ってきた。


「やっぱりさー、おぼっちゃんだからじゃない?親がすっごいお金持ちって聞いたことある」

「あー納得だわー。まさにそういう高貴なオーラ」


彼女らの話から察するに、彼は随分と恵まれた家庭の生まれらしかった。私とは全く違う、別世界の人なんだ――あの頃の私は、まだ話したこともないのに、彼に対して勝手に親しみを覚えて、勝手に遠い存在に感じていた。


 そもそもの話。私は、この学校に通っている大半の生徒と境遇が違う。さっき彼のことをおぼっちゃん扱いしていた彼女たちだって、家に執事がいて『お嬢様』と呼ばれるわけではなくとも、それなりに恵まれた家庭で育っているはずだ。だってここは名の知れた名門私立高校なのだから。県下トップの公立高校の滑り止めとして使われることも多く、そこに最悪落ちても妥協できるほどハイレベルな学校でもある。そういうこともあってブランドイメージが高いため、自然と富裕層が集まってくるのだ。私が学校の空気に馴染めないのはきっと、私とは住む世界が違う人ばかりだからなのかもしれない。


 私の家庭は、学費さえままならないほど困窮していた。母はシングルで、パートを三つ掛け持ちしている。その給料と奨学金とを合わせて何とか学費を捻出している。小遣いを貰えるような余裕はうちにはない。周りの子は話を盗み聞きする限りだと、お小遣いも月5000、いや、もしかしたらそれ以上は貰っているかもしれない。いいなぁとは思うけど、どうしようもない。金が欲しかったら自分で働けばいい、と母は言う。だから、去年の夏頃からこっそりとファミレスのバイトを始めた。うちの高校は進学校ということもあってバイトが禁止だから、バレないように皿洗いや盛り付けなどの裏方仕事をやらせてもらっている。稼いだお金は交通費に回り、あとは普段着や参考書を買ったらすぐ消えるから、実質私が自由に使える額と言ったら極々限られている。携帯も買えない。でも、不満は言えない。こうなってしまったのは私のせいでもあるのだから。私が、いけないんだから。


 そんな貧乏な家庭で育った私と、恵まれた環境で育った望月誠也。私たちの人生は本来まず交わるはずがなかった。私は彼を遠巻きに眺めていて、でも彼とは話そうともしない。彼は彼で、私のことなんか見向きもせず、自分の世界に籠っている。この先関わることなんてないだろうと思っていた。そのはずだったのだけれど。これを運命と呼ばずして何と読んだらいいのだろう。私達はこの小さな箱の中で、道を交えることになる。それはやがて、私たちの世界を変える。


 最初に彼と話す機会を得たのは、夏休み明けの授業だった。席替えで彼と前後の席になったのだ。席替えは学期ごとなので、少なくとも12月まではこの席で授業を受けなければならない。感じ悪いやつと思われないように一応挨拶はしておいた。背中をつつくと彼は顔だけ後ろに向けた。日焼けしていない白い肌。彼は冷めた顔で私を見た。

「よろしくね」

と結構無理をして笑顔を作った。彼は頷くだけで、すぐ前に向き直った。それだけ?こっちがわざわざ声かけたのに。あまりの塩対応で、愛想をした自分が馬鹿みたいだ。むかついて、それ以上何か言うのをやめた。


 それから暫くは、あの返事を根に持っていて、もう話しかけてやるもんかと思っていた。でも、ある日の昼、クラスの一軍二軍の輩がわらわらと教室を出ていったときのことだ。教室の中に私達だけが残った。

「外、行かなくていいの?」

思わず、前の席で突っ伏している彼に聞いてみた。そっちこそ、と彼がようやく返事してくれた。

「どうせ、またくだらない動画撮るんでしょ、興味ないよ」

彼らは最近流行っているショート動画を作っているらしい。チラッと覗き見したことはあったが、どぎつい加工が施された男子女子が上半身だけ動かすダンスをしている動画だった。興味がないと言えば嘘になるけど、そこまで彼らが熱中している理由がよく分からなかった。

「冷めてるね、君」

「そっちこそ」

同じ返答をしてやる。彼はふぅんと言って、また顔を伏せようとするので、私は間髪入れずに彼に聞く。

「君は、どうしていつも独りになろうとするの」

「それは君も同じだよね」

彼は振り向かないまま答える。

「私は、価値観が違う子といるのが苦手なだけ。あの子達にとってのスタンダードは私にとってそうじゃないから。でも君は違うじゃない。スマホだって持ってるんでしょ。お小遣いだってやまほど貰ってそうだし。だったら馴染めるでしょう」

「君は会話が苦手な人がいるということを忘れていないかい?」

「あ、そっか」

と納得しかけたけど、いやいや――

「話すのが苦手だとしても、だよ。どうしてそんなに敢えて孤独を選ぶの?これまで散々他の人から声をかけられていたのに、悉く無視したり曖昧な返事をしたり。誘われたなら、潔く乗ればいいのに。私は君という人がよく分からない」


気づけば、彼に捲し立てていた。彼は私が言い終わると少し口元に微笑を讃えてから言った。

「俺は捻くれているんだ。人の厚意を素直に受け入れることができない」

「もっと素直になったら、君ならみんなと仲良くできるよ」

「そんなの、こっちから願い下げだね。別に俺は独りでもいい。こっちの方が断然楽じゃないか」

「うーん、まぁ、確かに……」


確かにそうだ。私だって、あの子達に上手く馴染めないけれど、別にそれを嘆いたことはない。あの子達にはあの子達の世界があって、私には私の世界があると割り切っているのもあるけれど、誰かに気を遣わなくていいというのもあるかもしれない。都合良く振る舞う必要もない。それに、家よりはマシだ。あそこにいると家族はいるのに本当に本当の独りぼっちな気がして、寂しくなるから。少し騒がしいけれど、ちゃんと自分の世界がある。悪くないなとは思うのだ。

「君は単純だね」

と彼がまた笑った。何よ、と詰め寄ってみたけれど内心嬉しくもあった。この人も笑うんだ。なんだかとても新鮮に見えたのだ。それだけでも私にとっては満足だった。


 それ以来だ。私達の距離は、少しずつ、少しずつ、縮まっていった。男女の仲というわけじゃないけれど。友達と呼べるかも怪しいような、休み時間に軽く話すだけの間柄だ。つまらないことを言ってすぐ終わるときもある。休み時間をまるまる使い切ることだってある。日によってまちまち。他愛のない話もバラエティ豊かだ。話したくない時は無理に話さなくていい。それが私にとってはとっても楽だった。あぁ、私は、こんな関係をずっと望んでいたんだ、と気づいた。お互いゆるく繋がっていて、ゆるく語り合える、そんな関係。それだけで、私は満足できた。彼も、私との関係を居心地がいいと感じたのかもしれない。彼の方から話しかけてくることも多くなった。斜に構えたような態度が次第に柔らかくなっていくのを感じた。彼の表情も、心なしか穏やかになっているような気がした。


この前は彼が行ってみたいところを教えてくれた。

「星空観覧車って知ってる?夜だけ営業の観覧車」

「あー、なんかテレビで見たことあるかも。廃墟みたいだけど今もちゃんとやってるってやつ?」

「そうそう、星にいちばん近づける観覧車らしい」

「へぇ。でもさー観覧車って思ったより早く回るじゃん。星に近づけるって言ってもじっくり見れないなら、観覧車より山登ったほうがよくない?」

「なんだよ、ロマンの欠片もないことを言うなぁ」

「君だって、ロマンチストなんだね。いっつも冷めた感じだからそういうのは嫌いだと思ってた」

「うるさい。観覧車自体回るのが遅いからゆっくり星空を眺められるの。まぁだから1日限定50組なんだけどね」

「まぁ、ロマンチックねぇ」

「思ってもないこと言うなよ」

彼はリアリストのくせに時々おしゃれなことをしたがる。変な人だと思った。


 彼との会話の中で、家のことは話さなかった。あくまで学校の中だけで完結する話を心がけた。付き合いの浅い他人に家の事情を知られたくなかったのだ。大抵人は深い付き合いになる前によその家庭の事情に足を踏み入れたがる。付き合いを続けていいか見極めようとしているのだろう。私はそれが苦手だった。私のことを知ってくれている人ならある程度の理解を示してくれるだろうが、全く知らない人だと心無いことを言われるに決まっているから。家のことは、私がその人に心を許せるようになってから。このルールは自分を守るためでもあった。

 彼も、家族のことについては多くを語らなかった。話したくない事情があるのかもしれない。考えすぎかもしれないけど、彼はその手の話題を避けているようにも見えた。

 だからというのもあって、私は彼について多くを知らない。知っているのは、彼が私とは正反対な環境で生まれ育ったということくらい。

 あともうひとつ。

 彼は割と整った顔をしている。メガネをかけているときは、真面目なイメージが先行してあまり意識していなかった。だけど、この前外して寝ているところを偶然見て、ちょっといいなと思った。別にだからって、そういうのじゃないけど。これはきっと、クラスの中で私だけが知っている、彼の秘密だ。


 *

瑞希みずきは進路、どうする予定?」

誠也にそう聞かれたのは、11月の中旬になった頃だ。その頃には、彼も私のことを呼び捨てするようになっていた。

 最初の頃は『穂志ほしさん』呼びだった。あまりによそよそしく呼びかけてくるから、せめて苗字じゃなくって『瑞希さん』にしてよ、と抗議したところ変えてくれるようになった。それがいつの間にか呼び捨てだ。気づいた時に「あれ、呼び方変わった?」と茶化すと耳が赤くなったので、「じゃあ次からそう呼んで」と言ってあげた。

 私も彼のことを『誠也』と呼ぶようになった。この呼び方のせいで、最近クラス内で実はカップルなのではないかという疑いをかけられている。普段関わることのない子たちから「実はそうなんでしょ」とニヤケ顔で詰め寄られたのだけど、そんなことはない、全く。


 話を戻すと、彼が私にそんなことを聞いてきたのは、進路だよりが回ってきたからだった。3年まで残り4ヶ月ちょっと。そろそろ、行きたい大学に見当をつけておく時期なのだそうだ。また嫌な時期になった。

「まだ決めてない。お母さんと相談するかなー」

と適当に返事した。

「俺もなんだかんだ言って決められてないんだよな。高校も親に決められたし、もしかしたら大学も、ここ目指せって言われるかも」

と彼は諦めたような表情をしていた。思い出したくもない高校入試のことが頭をよぎる。つい、弱音が溢れてしまった。

「私、高校入試失敗してるからさ、今度こそは頑張らなくちゃいけないんだよね」

「え、じゃあここって滑り止めだったわけ?」

彼は驚いて目を見開いている。

「実は、そうなんだよね」

恥ずかしさを誤魔化して苦く笑う。

「俺はここ本命だったからちょっと複雑。でも、まぁ公立トップを目指すとなったら滑り止めはうちだよね。でもさー、ここ割と名のしれた名門校だし、そこまで、失敗って言うほどかな」

と普段以上に彼は明るい口調で言った。暗い雰囲気にならないようにと気を遣ってくれているのが見て取れて、申し訳なくなる。胃がきゅうっと絞め上げられている感じがした。お昼に食べたものを戻したくなる衝動に駆られる。だけど、そんなんじゃだめだ、と平静を装って、彼に

「……ごめんね、別に、大したことじゃないから」

と辛うじて返した。

「顔色悪いよ?」

彼が顔を覗き込んできたけれど、見ないでほしかった。私の顔は今きっと、とっても歪んでる。あのことを思い出す度に、胃がきりきりと痛むのだ。ずっと、ずっと、私は過去に、そしてあの人に、囚われている。

 昼からの授業を何とか乗り切って、放課後が訪れた。皆一目散に部室へと駆けてゆく。あっという間に教室は私たちだけになった。二人だけの世界が次第に黄昏に彩られる。バックを持って帰ろうとした。少しだけ、ほんの少しだけ、淡い期待を胸に秘めて。いや、淡くなんてなかった。私は期待していた。彼と仲を深めるようになって、彼になら、私の総てを明かしてしまっても、いいんじゃないか、そう思うようになってしまっていた。私は、彼に、醜い、欲深い感情を持ってしまっていた。私を引き止めて、そう願っていたのだ。


「待って――」

後ろで、彼が叫んだ。私の願いは、叶った。ようやく私は、誰かに縋ることができたのだ。ホッとした。これまで断崖の端で抱えてきた思いが、その時、頬を伝って零れ落ちた。


【続】




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