第5話 最後のキス。俺は鈍くないんだよ
「坂下君。ご執心な新人がいるんだって?」
休憩室でコーヒーを飲んでいたら、先輩に声をかけられた。
先輩は元カノだ。
お互い別の人と結婚することになって、後腐れなく別れた。
ま、俺らが付き合っていたことは、会社にも、お互いのパートナーにも秘密にしている。
近藤以外には。あいつは感が良いのでばれた。流石、恋多き男なだけある。
俺は、ちょっと狼狽えながら、
「誰に聞いたんですか?」
と聞くと、
「近藤君に決まっているじゃない」
と、クスクス笑っている。
もう、近藤。いい加減にしてくれ。今井さんの面倒を見るのをを邪魔してくるくせに。
「別にご執心な訳ではないです。有能な新人だから面倒を見ているだけですよ」
と、ちょっと拗ねた様に言う。
先輩は、更にクスクス笑い、
「そう言う事にしておくわ」
と言うので、
「近藤のいう事なんて聞かないでくださいね」
とお願いした。
「先輩、もう帰るんですか?」
と、話を変えると、
「あら、飲みのお誘い?」
と、茶化してきた。
「俺が誘ったら飲みに行ってくれるんですか?」
と、仕返しした。
すると先輩は、
「私の旦那、結構嫉妬深いから気をつけないとね」
と、冗談何だかなにか分からない返事をしてくる。
先輩は社内結婚した。
会社を変えると思ったのだが、有能なので引き留められたらしい。
「そうなんですか?じゃ気をつけないと」
と、冗談で返す。
先輩は茶目っ気たっぷりの顔をして、
「じゃ、私本当に帰るのよ。お疲れ様」
と、挨拶してくれた。
俺も、
「お疲れ様でした。今度惚気話でも聞きますよ」
と、挨拶すると、先輩は、
「もう。坂下君は」
と、言って帰って行く。
「本当は恭介に飲みに連れて行ってほしいんだけどね」
俺は先輩のつぶやきが聞こえた。
追いかけて、腕を引き、深いキスをする。
「先輩。これが最後です」
「そうね。ごめんなさい」
俺、本当は先輩の旦那さんに嫉妬していたんですよ。
席に戻ると、今井さんがまだ仕事をしていた。
「近藤、今井さんに残業させるなよ。新人なんだから、会社から厳しく言われるんだよ」
と、注意する。
近藤は、
「そうですね。失礼しました。ごめん、今井さん帰っていいよ。続きは明日にしよう」
と、神妙に返事をした。
今井さんは、
「切りが良くないので、終わってからでは駄目ですか?」
と、言ってきたので、俺は、
「あとどれくらいかかるの?仕事のコントロールは必要だよ。
めどが立っていないのに、だらだら残業してはダメだ。
近藤もいいって言っているから、今日はもう上がりなさい」
と、注意する。
今井さんは、珍しく俺が厳しくしたので、
「失礼しました。今後気を付けます。お先に失礼します」
落ち込みながら帰って行った。これも彼女の成長のためだ。
今井さんが帰ったあと、近藤が言ってきた。
「珍しく厳しくしましたね」と。
俺は、
「当たり前だ。優しいだけじゃダメだからな」
と、ごく当然の事を言った。
「ところで、お前。先輩になにか言っただろう。からかわれたぞ」
と近藤に抗議する。
すると近藤は、
「本当の事を先輩に教えただけですよ」
と、俺にいつもの仕返しだ、と言わんばかりの顔をしていた。
そして、
「お前、本当に鈍感なんだな。先輩の事といい、今井さんの事といい」
と、言ってきたので、
「なんだよ。鈍感って」
と、抗議した。
翌日。俺は今井さんのケアをする。
「昨日はゆっくり休めた?残業すると疲れただろう」
と、声をかけた。
今井さんは、落ち込んだ様子はなく、
「昨日は申し訳ありませんでした。お気遣い頂いたので、ゆっくり休めました」
と、返してくれる。
俺は、嬉しくなって、でも、照れ隠しで、つい説教くさくなってしまう。
「残業は良くないからな。不必要な残業をしたらダメだよ。
新人に残業が必要な仕事は割り振っていない。
昔は残業が当たり前の職種だったんだけど、最近は改善するような風潮になっているからね。あと、残業は疲れるので、生産性が落ちるんだよ」
と、自分で重要だと思う事を今井さんに伝えた。
「わかりました。昨日言われた通り、仕事のコントロールをして、できるだけ残業しなくてもいいように仕事を進めていきます。
ところで、教えていただきたいのですが、『生産性』って何ですか?
なんとなくはわかるのですが、きちんと知っておきたいと思いました」
と、質問される。
分からない事は、はっきり分からないと、言えることは重要だ。
「ちょっと難しくいうと、労働時間に対してどのくらい成果が得られたのか、
なんだけど、自分の時間でどれくらい仕事ができるか、って思ってもらえると良いよ。
同じ時間でプログラムが何本かけるか、みたいなね。
疲れていると、調子がいい時と比べて同じ仕事をするのに時間がかかるでしょ。
残業は調子を崩しやすいから、生産性が落ちる、という事になるんだ」
と、できるだけわかりやすい様に教えてみる。
「ありがとうございます。すごく良くわかりました」
とお礼を言われたので、
「これくらいの事はいつでも教えられるから、困ったら聞きに来てほしい」
と、いつもと同じ声をかける。
なんだか、くどい自分が更に照れ臭くなった。
そんな自分をおくびにも出さないでいると、今井さんに、
「ありがとうございます」
と、晴れ晴れした顔でお礼を言われて、更に嬉しくなる。
俺はついつい、親父臭く話が長くなってしまった事を後悔した。
隣を見ると近藤がニヤニヤした顔で、
「部長。今井さんに色々教えてご機嫌ですね」
と、言ってきたので、
「お前が教えないからだよ」
と、仕返ししする。
そして、『俺は鈍くないんだよ』と
近藤に心の中で、毒づいた。
でも、この時は気づいていなかった。
今井さんへの気持ちを。
俺は、本当は鈍かったらしい。
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