第10話 不自由を願い(4)

 三年前のあの日、百々目さんは日本まできっちり私を送り届けてくれた。それも『プライベートジェット』でだ。


「紫貴もこれ、使えばよかったんじゃないの?」

「いや、めちゃくちゃ高いんだ、これ。でも俺はこれじゃないと日本に入れないからしょうがない。航空会社に出禁食らってるからな」

「何をしたの、過去に……」


 過去にあったことは教えてくれなかったが、彼は私を実家まで送ってくれた。たった三カ月ぶりだというのに、本当に久しぶりに親の顔を見たような気がして、私は泣いてしまった。百々目さんは何故か三日も私の実家に滞在してから「達者でな」と突然帰ろうとしたので、無理やり連絡先を交換した。


「なんで俺の連絡先がいるんだよ」

「紫貴が返信くれなそうだからよ」

「だー……もう、……しょうがねえな。年一で連絡してやるよ」


 そうして彼は去っていった。

 それからすぐ英語が使えるようにならなくてはと日本語学校でアルバイトを働き始めた。そこでワーキングホリデーのことを聞き、イギリスのワーキングホリデー枠の抽選に応募したらまさかの当選。慌ただしく準備をし、年越し前に渡英した。

 だからあれから一年後の三月、百々目さんからの最初のメッセージが届いたときは、紫貴からもらった香水ブランドのスコットランド唯一の店舗での勤務していた。



『紫貴は身長がまた伸びた。元気にしてる。以上。』



 そんな簡潔なメッセージには紫貴の写真が五枚もついていた。

 一枚目は相変わらず真っ黒な服を身に着けた紫貴が喫茶店でコーヒーを飲みながら、つまらなそうに窓の外を眺めているもの。二枚目はガンショップで大きな銃を構えて満面の笑みを浮かべているもの。三枚目はおだやかな顔で観葉植物に水を上げているもの。四枚目はピアノを弾いているもの。五枚目は、無理やり撮られたのだろう、百々目さんと肩を組んでいる自撮り写真だった。ものすごく嫌そうに顔を歪めている紫貴が可愛かった。


(元気そうだ)


 私は紫貴の写真をお守りにスコットランドで語学力と接客のイロハを身に着けた。休日にはたくさんの美術品とたくさんのオペラに触れた。給料の殆どを美術館と劇場に渡して、今まで触れてこなかった教養を、本気で学んだ。

 そうしたからこそ、紫貴がくれた香水が『天使』を意味するものであり、彼の使う香水『悪魔』と対になっているもので、しかしその二つが混ざると『人間』となる、というブランドコンセプトがあったことを知った。思わず泣いてしまうぐらい、嬉しかった。

 そうしてその七ヶ月後には、私はフランスにいた。

 務めていた香水屋がフランスに出店するというから、その立ち上げメンバーになったのだ。フランス語は全く話せなかったけど、チャンスを逃したくなくて手を挙げた。結果的に、体重が五キロも落ちたけど、フランス語は日常会話までできるようになった。

 その香水店の立ち上げが終わり、目標販売の三倍を達成した頃、日本の百貨店で務めている今の上司に声をかけられた。給料は倍以上になるし、他の国に行く機会はたくさん増える仕事だった。さらに忙しくなるけれど、やりたいという気持ちを優先して、私は帰国した。

 それが、今の仕事の始まり。

 見積もりが甘かったり、スケジュールが甘かったりで、たくさん迷惑もかけたし、自分もかなり無茶をした。まだ仕事に慣れていないそんな時、百々目さんから二通目がきた。また、三月だった。



『紫貴はマアマア元気。ちょっと忙しい。以上。』



 紫貴の写真は一枚だけだった。

 寝ているところを無理やり起こされたのか、毛足の長い白いラグの上で胡座を組んだ下着一枚の紫貴が大変不機嫌そうにしていた。


(このラグ、似てる……フフ)


 その紫貴の写真をお守りにし、私は気合を入れ直した。


(紫貴も頑張ってるんだから、私はもっと頑張らないと、……全然追いつけないじゃない!)


 そして、頑張って、頑張って、頑張って……私は今、そこそこちゃんと仕事をしている。


(でも……)


 この三年間、紫貴からの連絡はまったくない。

 こちらからは偶にメッセージを送るけど、恐らく届いていないのだろう。だから、もう、紫貴に送っているというより、月に独り言を聞かせるようなむなしい作業となりつつある。でもまだ、送ってしまう。


(どうしたらいいのかしら、……)


 忙しい仕事の後の癒やしのお風呂に浸かりながら、スマホに入っている紫貴の写真を眺める。


(紫貴と別れてから、ニ年と八ヶ月……つまりほとんど三年……、……三年かぁ……三年ね……)


 一日に三回は紫貴の写真を見てしまうことを、どこかで辞めなくてはいけないとわかっている。でも、やめられない。


「はぁあ……」


 お風呂でため息をつくと、反響してより憂鬱な気持ちになった。何通送っても、なんの返事もない紫貴の連絡先を開く。


『日比谷 紫貴』

「きれいな名前だなあ……」


 少し考えて、インカメラで写真を撮った。

 にごり湯だから時代劇のお色気シーンぐらいで、ギリギリセーフだ。


「……どうせ見てないし、届かないんだし……女は度胸よ、市村みどり! 二十七歳の体を誰にも見せないで終わっていいの! よくない! てぇい!」


 送信した。


「……はぁ……」


 やらないよりはやった後悔と思いながら、お風呂から上がった。

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