最終章 幕開け

第9話 自由に怯え(1)

「みどり、大丈夫だよ。すぐ一杯にしてあげる。君の好きな壁紙とソファーとラグとカーテンと……植物だっていくらでも置いてあげるから、ね、……大丈夫、何も変わらないよ」


 柔らかくて温かくて苦くて甘い香りのする泥が私を覆い尽くしている。なんとかそこから抜け出そうともがいても、どうしても抜け出せない。


(だめ……寝たら、だめ……)


 瞼の裏で「おやすみ、みどり」と彼の低い声を聞く。だめだと思うのに、すぐに真っ暗な世界に戻り――「みどり」――意識が戻っても――「ごめんね」――瞼は開けることは叶わず――「君がいないと……駄目なんだ……」――切れ切れの意識、――「俺を許さないで」――私は眠り続ける。


(起きて、市村みどり。紫貴と話をしないと……)


 とても眠くて、怠くて、指一本動かすのだって無理だ。どこに自分の指があるのかさえわからない。金縛りにあったみたいに、私は眠るしか出来ない。


(紫貴に、帰ってきてくれて嬉しいってちゃんと言ったっけ……ちゃんとご飯食べてたかな、ちゃんと眠れてたかな、……紫貴が何をしてきたのか、ちゃんと聞こうと思ってたのに……)


 自分の身体がここにあるのかすら、よくわからない。とろとろと溶けて、泥になってしまったのかもしれない。そう思うほど強い眠気が永遠に続いてしまう。


(聞いてほしい話がたくさんある。指輪の自慢もしなきゃ。あ、でもデートなんて言ったら嫉妬しちゃうかな?  そんなの、……すごく嬉しいだろうな……)


 泥の眠りの中、私の願いは一つだけ。



(紫貴と、デートしたい)



 はっきりと、そう願った。



(そのためになら、私、何でもできる気がする)



 ――、そうして、ようやく『彼』が来た。




「おい、ブス。寝てんじゃねえよ」


 不遜極まりないその言葉に私はようやく目を開けられた。


「どんな下手を打ったら、ここまでこじらせられるのか……説明してもらうぞ、チワワちゃん?」


 そこには昨日撃たれたとは思えないほど飄々とした優男が立っていた。


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