第8話 朝露に消ゆ(5)

「待って、……止まってよ、紫貴! 話を聞いて! 痛いっ……ねえ!」


 彼は振り返りもせずに私の手首を引っ張っていく。何度声を掛けても、躓いても、彼は止まってくれない。

 紫貴に引きずられて空港を出ると、一台のリムジンが私達を待っていた。リムジンの横に待機していた男性は紫貴に話しかけようとしたが、紫貴に一言「SHUT UP」と言われ、頭を下げて扉を開ける。紫貴は振り返り、私に先に乗るように指し示す。その仕草が『ただの指示』であることにゾッとする。


(いつも紫貴は私に敬意を持ってくれてたのに……)


 泣きそうになりながら、彼を見る。彼は感情のない目をしていた。


「やだ……」


 首を掴まれて、リムジンの中に放り投げられたと分かったのは、革の椅子に頬から落ちた後だった。百々目さんに地面に放り投げられたときにできた擦り傷の上に新しい傷がつく。ズキズキ、泣きたくなるぐらい痛い。後から乗り込んできた紫貴は車の扉を閉め、私を見下ろす。小蝿を見るかのように無感情の瞳だ。

 車が動き出し、車内にはオペラが流れ始める。


「ねえ、……紫貴、話を……」


 彼は私から目を逸らし、窓に視線を移した。会話をする気はない、というわかりやすい意思表示だ。


(……これは、本当に、紫貴なの?)


 張り詰めた横顔に、話したいという気持ちを折られてしまう。


(私が、悪いの……? 私が、……意地悪したから……)


 対話を求める前に涙が落ちてしまった。拭おうと持ち上げた自分の両手が震えている。ガタガタと勝手に震える手で服の袖を伸ばし、次から次へとあふれる涙を拭う。

 ふ、と私の手に冷たい手が重なった。


「……そんなにこすると、赤くなる」


 紫貴の声は、低く、そしていつものように優しい。

 涙を拭いながら、顔をあげる。彼は、……泣きそうな顔をしていた。先程までの張り詰めた無表情ではない。いつかのときのように、泣くのをこらえている顔だ。


(どうして、あなたが今、そんな顔をするのよ……)


 彼の冷たい両手が私の頬を包む。彼の指が私の涙を拭い、彼の唇が頬に触れた。チクリと傷が傷む。


「みどり……」


 彼は口を開き、しかし、言葉にはせずに閉じた。私も何か言いたくて口を開き、しかし言葉がなく、彼を見上げる。彼は私と額を合わせて、目を閉じた。


「百々目が俺のフライト時間をもらすはずがない。俺を迎えに来たんじゃなくて、日本に逃げるつもりだったんでしょう?」

「日本には行くつもりだったけど、それはビザを……っ」


 視界がぐるりと回り、息が止まった。


「何故俺から逃げるんだ」


 ゴボ、と胸から空気を吐き出してやっと、彼に椅子に押し倒されたことがわかった。ひゅう、と自分の喉から息が漏れる。彼は私を無理やり押し倒しておきながら、怯えた瞳で私を見下ろす。彼の手が私の喉をおさえているのに、その顔はまるで被害者だ。


「俺は……ちゃんと言ってたろ? 俺は怖いよって……君は承知していたはずだ。なのに、今更……こんなに好きにならせておいて、今更俺を捨てるのか……」


 みどり、と彼が私の名前を呼ぶ。世界で一番大切なものみたいに呼んでくれる。なのに首に手をかける。大切なおもちゃを簡単に壊してしまう幼い子どもみたいに。


「……許さない、そんなことは、……君は俺のそばにいるんだ、絶対……、……絶対に……」


 彼には同年代と関わった経験が少なすぎると、自分で言っていた。彼にとって周りの人間は部下か敵しかいない。私が初恋であるほどに、彼には致命的に人間関係の構築経験がないのだ。あの家の女性たちと同じように彼は、喧嘩の仕方も、仲直りの仕方も、まだ知らないだけ。


(だから……こんなことをされても、怖くない)


 彼の頬を撫でる。それだけで彼の手の力は抜けた。私からキスをすれば、彼は私を抱き起こしてくれる。


(ほら、彼は私を傷つけたいわけじゃない。怖がってるだけ……)


 彼の血の気の失せた唇に何度かキスをして、彼を抱きしめる。彼は私に縋り付くように抱きついてきた。


「紫貴、聞いて……あなたと生きていくには、今の私には足りないものがたくさんあるのよ。だから、ちゃんとしたいの。ビザも、仕事も、お金も、私、ちゃんとしたいの。あなたの横に立てるようにしたいだけなの」

「いらないよ、そんなの。俺が守るから何も心配いらない。みどりは側にいてくれたらいい」


 彼の表情はかたく、私の言葉が届いていないことだけはわかる。


「でも……百々目さんが撃たれたじゃない。私に警戒心があればそうはならなかったでしょ?」

「撃たれたのはあいつの落ち度だ。みどりのせいではない」

「私の目の前で撃たれたのよ! 私をかばって! あなたの大事な人が私のせいで……」

「そんなの、どうでもいい」

「いいわけないでしょう! あなたにとって彼は親なんでしょ!」

「いいかげんにしろ! いつまで他の男の話をするんだ!」


 紫貴が私に噛み付くようなキスをしてきた。私を黙らせるためのそのキスは痛みを伴う。血の味がする彼の舌を受け止めながら、話をしなくては、と思う。けれど、彼の舌によって、私の喉に何かが押し込まれた。それを必然的に私は飲み込んでしまう。


(何……今、何を飲まされたの……)


 フワ、フワ、と急に思考が途切れていく。何かされたことは分かるけれど、どうしようもなく、彼のキスを受け止め続ける。息がつまり、意識が遠のいていく。彼は何度か私の唇にキスを落としてから、私の肩に額を付けた。

 彼の銀髪を撫でてあげたいと思うのに、手が動かない。話さなくてはいけないと思うのに、私の目は閉じてしまう。


「……もう何も考えないでいい……一緒に帰ろう。俺が守ってみせるから……ね、……もう、逃げることなんて考えないで……頼むから……みどり、帰ろう……」


 彼が求めているのは二週間前の私達の家なのだろう。


(でも……もう、そこには帰れないのに……)


 動かない身体、話せない口、それでも目は涙を流せた。そうして私は意識が完全に途切れるまで、私に縋る彼の体温を感じ続けていた。

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