第8話 朝露に消ゆ(4)

 空港の自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに腰掛ける。紫貴が当たり前みたいに私の肩を抱くから、当たり前みたいに彼にもたれた。彼は電話で誰かに迎えと新しい家を頼み、それからスマホをジャケットにしまった。


「みどり、眠そうだね」

「深夜だもの」


 私も紫貴もスマホに触ることなく、寄り添う。手をつなぎ、互いに指先で好意を伝え合いながら、ぼんやりと歩き去っていく人たちを眺めた。


「……ねえ、紫貴……そのミニオンズ会議って……綺麗な人いた?」

「いるわけないでしょ、おっさん祭りだよ」

「……そう、よかった」

「何? 浮気の心配? ありえないから」


 彼は軽く笑う。そのことに少し苛立ちを覚えた。


(私がどんな思いでいたかも知らないで……)


 彼の手を握りしめて、彼を見上げる。


「……百々目さんって、いい男よね?」


 紫貴は素直に目を見開きた。


「あんな色男に私を預けて、あの人の女にされちゃうとは少しも思わなかった?」

「百々目は女のために生きてるけど、全部の女より俺のことが大事だからね、俺を怒らせることはしないよ」

「恋は理性じゃ止まらないのよ」


 紫貴は眉を寄せた。その不愉快そうな顔がおかしくて「彼の青い目は空みたいね」と続けると、彼は舌打ちまでしてみせた。彼が怒ることに少し苛立ちは収まる。でもまだ、私は意地悪な気持ちだった。


(だってこの二週間、本当に色々あった……少し意地悪したっていいでしょ)


 彼の目が明確に嫉妬の色に染まっている。そのことは、二週間連絡がつかなくても彼が私を好きなのだと、私を安心させてくれた。


(私があんなおっさんを好きにならないのは明白なんだし……)


 彼は苦虫を噛み潰した顔で、「百々目は二度と届かない女が好きなんだ。みどりを好きにはならないよ」と吐き捨てる。


「桃子さんのこと、そんな風に言うのは良くないよ」

「……誰に、桃子のことを聞いたの?」


 彼の目が怯えていた。何故そんな目をするのかわからなくて、私も怖くなる。


(もしかして、少し意地悪しすぎた?)


 私は彼の手を握りなおして「彼の薔薇の家で彼のたくさんの女から色々……教わったのよ、それだけ」と笑いかけるが、彼は全く笑ってくれない。


「あのね、私、この二週間、頑張ったのよ? 英語もかなり話せるようになったから、救急車も呼べるし、百々目さんの部下の話も聞き取れるわ。バスにも乗れるし、就労ビザの取り方も知ってる。だから世界中のどこにでも行ける。前よりずっといい女でしょ? ……ねえ、紫貴……?」


 聞いているのかいないのか、紫貴は自分の足先を見つめている。 


「……あなたは、この先、私とどうなりたい?」


 彼の長いまつげを見つめる。

 私ばかり彼を見て彼はこちらを見もしない。だけど彼は、影までも美しかった。


「みどりが欲しい。全部、欲しいよ。この先の人生、全部、君と過ごしたい。俺は日比谷紫貴でいたいんだ。いつも君の隣で、君の男で、他に何もなくていい」


 本気でそう思っているのはわかっていた。この人は本気で夢を語る。私はその夢が好きだった。だけど、それは決して現実にはなりえないと、私ももうわかってしまっている。


「ちゃんと教えて、紫貴。あなたは私をどうしたいの?」


 私が知りたいのは、夢じゃない。現実だ。


「私をどこかの牢獄に大事にしまい込んで、もう外には出さないつもり? それで、家を開けるたびに今回みたいにペットシッターを雇うの? ……そうなの?」


 彼はきつく目を閉じて、眉間に深く皺を刻む。


「……俺の彼女なら、それが一番安全なんだ。俺には敵が多いから」


 彼が軽薄に笑った。

 そんな表情は今まで一度も見たことがなかったけれど、彼の顔によく馴染んでいる。


「そんなのはちがうでしょう、紫貴。私はちゃんと私として、あなたと生きていく道が知りたい。そのために私ができることを知りたいの。だって、真綿につつまれて、骨董品みたいに過ごすなんて無理よ」

「……無理? ……別れ話ってこと?」

「そうじゃない。あなたと生きていくために、どうしたらいいかを一緒に考えたくて……」


 彼は私の言葉を聞かず、私の肩に顎をあてると、私を抱きしめる。

 ――ゾクリ、と冷えた。

 いつもは安心する彼の体温なのに、今感じるのは恐怖だ。


「みどりは俺の女だ」


 彼の腕はとても力強く、私は身動ぎすら許されない。まる蛇に締められた獲物のようだ。


「それだけで君の価値は変わる。だから価値にふさわしい形に着飾ってあげる。君にふさわしいものを全部俺が用意する。……なのに満足ができない? 俺にどんな不満があったんだ。何をそんな……嫌な言い方をする? 反抗したいのか? 俺に? 何故? ……百々目がそんなによかったのか? なら、あの野郎の血肉で晩餐会を開いてあげるよ」


 鼓膜に注ぎ込まれる低い声は、妙に艶のある声だった。彼からはいつもの甘くて苦い香りがするのに、まるで違う男に抱かれているみたい。生理的な恐怖に勝手に歯が鳴ってしまう。


「紫貴、違うわ。さっきは意地悪で言っただけで百々目さんのことはそんなんじゃ……」

「俺のことだけ追いかけて、俺のことだけ好きな、可愛いみどりはどこにいったのかな?」

「紫貴っ! 痛いっ! 苦しいわ!」

「ハハッ……必死に取り繕っていた俺が馬鹿だった……こうなるんだったら最初から……」


 彼が不意に立ち上がった。


「帰るよ、みどり」


 私を見下ろす、淀んだ瞳は暴力の予感を孕んでいた。何かを致命的に間違ったのはわかったけれど、もう直し方は分からない。


「どこへ、帰るの……?」


 私の手首を掴む彼の手には髑髏を被った悪魔が笑っていた。

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