第8話 朝露に消ゆ(3)

 空港のタクシーの降車口で下ろされてから、入国ゲートの方に回されてしまっていたことに気がついた。


(そりゃそうか。こんな荷物もなく、出国なんて普通しないもの……)


 空港内は深夜でも人はまばらに歩いており、ここが眠らない街のそばにあることを感じさせた。

 一番近くの電子案内板では入国便の時刻が掲示されていた。やはりこの時間でも国際便は動いているようだ。出国便についての表示に切り替わっても同様だ。日本行きのフライトもある。


(……日本に行ってビザを取って、仕事を探して、……世界中のどこでも働ける人になれば……紫貴は私を信用してちゃんと説明してくれるようになる、きっと。……だから、そうよ、……紫貴だって教えてくれないんだから、……私も勝手に日本に帰ってから事後報告してやる……それの何が悪いのよ……)


 ちょうどいいフライトは二時間後だった。スマホを立ち上げ、紫貴の連絡先を開く。



――日比谷 紫貴



 交換したときのように、その文字を撫でる。美しい名前だと思った。今でもそう思う。けれどこれは彼の本当の名前ではないのだ。


(どうして……私は彼に信じてもらえないんだろう……どうしたら、紫貴の人生を、私に任せてもらえるんだろう……? どうしたら……私達は対等になれるの……)



 キラリ、と視界の端で光った。


「あ……」


 出国ゲートに、月の光。

 真っ黒な出で立ちと銀色の髪。

 『彼』は異国から戻ってきたというのに荷物はなく、まるで散歩から戻ったかのように軽い足取り。伏せていた目が開き、視線が上がり、彼は私を見た。無表情から、柔らかく目を細めて笑う。



「みどり!」



 声を聞いた瞬間に、考えていたことが全部消えて、足が動き出してしまった。



「紫貴っ……!」



 周りの目なんか気にせずに、彼に飛びつく。彼の身体が冷えた私の体を覆い尽くしてくれる。甘くて苦い彼の匂いに包まれると、どうしようもなく安心してしまった。


「わざわざ迎えに来てくれたの? 百々目に聞いた? ……嬉しい。ただいま、みどり。……みどり? どうした?」


 まるでほんの一時間だけ家を開けていたかのように、紫貴がおっとりと話す。キン、と鼻の奥が熱くなった。彼の体を抱きしめて、口を開いても嗚咽が漏れてしまう。


「みどり? ……何かあった?」


 のんきな彼に、込み上げてきたのは怒りだけだ。


「『何かあった』……じゃないわ! たくさんあったわ! たくさんっ……なんで連絡くれないの!」

「エ? 連絡?」

「そうよ! 電話でもメールでも何でもいいのに、どうしてっ……あなた、私の彼氏なんじゃないの!? なんで二週間も音沙汰無しなのよ!」


 思い切りその胸を突き飛ばしたが、紫貴は少しも突き飛ばされてはくれず、むしろ力強く私を抱きとめる。どんな顔で言い訳をするのかと目線を上げると、彼は呆けた顔をしていた。まるで『怒られるとは微塵も思っていなかった小学生』みたいな顔だ。


「何よ、その顔!?」

「連絡、……思いつきもしなかったな……」

「『思いつきもしなかった』!? 私のことなんか思い出さなかったの!? 私がっ……どんな思いで……っ」


 怒りのあまり息が詰まった。こんなやつ知るかと、触るなと暴れているのに、紫貴はびくともしないで、私を抱きしめてしまう。


「違うよ、毎日考えてた。忘れたこともないから、思い出すというより、ずっと『早く仕事終えて帰ろう』って考えてたけど……みどり、落ち着いて、息して、俺を見て」

「落ち着けるわけないでしょっ! 私がこれだけ怒ってる理由が分からないの!?」

「……ウン、……」

「『ウン』!? もう知らない、バイバイ、離して!」

「バイバイなんてさせるわけないでしょ、話を聞いて……お願い、泣かないで。みどり、……みどり……」


 彼の入れ墨だらけの手が三歳児みたいに暴れる私を穏やかに撫でてしまう。彼の銀髪を引っ張っても、彼は私の額や頬にキスをしてしまう。ずっと滅茶苦茶に怒っていたいのに、彼の、大切なものを呼ぶ声に泣けてきてしまう。


(紫貴だ……)


 この声。この体。この匂い。


(紫貴がいる……っ)


 腕から力が抜けて、彼の両腕に抱きとめられる。頭を撫でられると、怒りは涙に変わった。彼の胸にしがみついてすすり泣く私に、彼は「ごめん」と言った。


「人と付き合うの、みどりが初めてだから……」

「それが何の言い訳になるのよっ! メール、読みもしないでっ……電話も無視して!」

「無視したわけじゃ……今までずっと電波のないところにいたんだ。先に説明をしておくべきだった。ごめん、みどり、……これも言い訳にならないな……」

「……は?」


 紫貴は見てるこちらが哀れになるほどにオロオロしていた。


「……電波がない?」

「いや、外部に通じる電話はあるんだよ、一つだけど……。アッ! だからみんな会議の後に電話に並ぶのか! 『みんな、部下が使えないんだな、大変だな』と思ってたけど……そうか、アレは恋人や家族に連絡をしていたのか。アレ使えばみどりの声が聞けたのか……俺、馬鹿すぎる……」


 勝手に落ち込む紫貴の頬に触れる。彼は眉を下げて、哀れな子犬の顔をしていた。


「……あなた、どこで何をしていたの?」

「孤島で世界悪巧み会議……ミニオンズみたいなものだから、怖くないよ?」


 そんな愉快なものでは絶対ないだろうが、状況は理解できた。私は両手で自分の顔を拭ってから、深く息を吸う。


「それ、百々目さんも知ってた? 電波通じないことも?」

「ウン、あいつもこの会議出たことあるから……ア、そうだよ、百々目、説明してくれなかった?」


 脳内で、あのおっさんの『いや、聞かれてねえし。お前が勝手に日比谷に無視されてると思ってたんだろうがよ』というムカつく顔とムカつく声がした。一周回って、私の中には怒りはなく、残ったのは明確な殺意だけだ。


「あいつ……撃たれて当然だわ……」

「へ? え、百々目、撃たれたの? ごめん、みどり、スマホ確認させて」


 紫貴はスマホをざっと確認すると、殺意に震える私を抱きしめた。


「たくさん連絡ありがとう、みどり。たくさん、……傷つけたね……ごめん」


 紫貴のゆったりとした話し方を聞いたら、ため息が出た。


(そうだった。私の好きな人はこういう話し方をして、こういう声で、……こういう風に抜けてて……可愛い人だ)


 彼の頬を両手でつかんで、その額に額を合わせる。


「私はとても怒ってるのに、なんでお詫びのキスもしてくれないのかしら?」

「……ごめんなさい」


 二週間ぶりのキスは、殺伐とした私の心に寄り添う天使みたいに優しいものだった。


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