第5話 鬼来たりて(4)

 俺の生まれ育った街は、イタリアにしては平和なところだ。


 俺は裕福な家の生まれで、幼い頃からダルメシアンを飼っていた。最初の犬の名前がピアノで、俺がピアノを弾いているときずっと俺の膝に頭を乗せていた。このニュージャージーに住んでると、よく大きな犬を散歩してる人を見るでしょう? 俺はあれを見るのが好きなんだ。大型犬を一度飼うとどうしても忘れられなくなるのかもしれないね。……もう俺は飼えないけど。どの時間でも幸せそうな大型犬の顔を見られるこの街は、俺にはニューヨークより楽しいんだ。ほら、ニューヨークは抱き犬が多いだろ……わかった、わかった、話を戻そう。

 俺の家では社交が重要だった。幼い頃から大人の間で一人の人間として振る舞うことが求められた。

 だから、まともに同年代と初めて関わったのは中学の時だ。……、どう対応したらいいのか分からなかった。みんな子どもだからさ、……世界の中心は自分だと信じていて……、理想が高く、知識が乏しく、幼く、愚かだ……子どもの中で俺は異物だった。


 ……いじめ?

 ハハッ、いじめられることはないよ。俺は喧嘩が強いから。……いや、冗談じゃないよ。本当のこと。俺は話し合いも強いし、殴り合いも強いし、撃ち合いだって負けないよ。そういう風に育てられているし、……エ? 百々目のが強そう? なんで? あんな筋肉達磨、骨折ったら終わりだろ。……そうだね、みどりの前でそんなことはしたくない。


 ……資本主義、ってあるだろ? いや、話は変わってない。

 人間は、なんで資本主義の社会を形成したと思う? ……みんなで仲良く? アハハッ! ……いや、ウン、そうならいいなって。……強いもののためにあるんだよ、人間の作ったものは全部。国も法律も貨幣制度も、上が下を支配し、搾取するためのものだ。

 そして、俺は上に立つ家の生まれだ。それも、暴力も一つの手段にしている。

 ……ヤクザみたいなこと言わないで?

 ヤクザは怖いけどね、日本だともう落ち目だろう? ヤクザは処罰され、ムショに送られたよ。マァ、……そうして今度は普通の人間が暴力を用いるようになった。金がないやつが金がないやつを殴って、わずかばかりの金を奪って結局何も変わらない。暴力はいつも貧しさに根付いている。


 ……イタリアの話をしようか。

 イタリアでは日本と違って、マフィアは元気にしてるよ。みんな貧しいからね、マフィアの恩恵を受けている市民はたくさんいる。失業率が高くて、問題が多くて、陽気だけど陰気なところだ。だから『この国』ではマフィアは死なない。

 ……いや、話は何も変わってない。

 俺の育った街は貧困の隣にある街……中学の時に初めてそれを現実として理解した。

 この幼い子どもだちが、俺が将来、……骨の髄まで支配する小市民たちなんだと。それが、……とても恐ろしかった。それまでは何も疑問に思わなかった自分の生まれも、地位も、周りの大人たちの態度も、急に……納得を伴って吐き気がしてきた。自分の親の……善性に見せかけた暴力性も、理解すればするほど共感できてしまって、そんな俺の性根が……酷く、恐ろしかったんだ。

 だって目の前にいる子どもたちは、まだ自分が世界の中心だと信じているのに、彼らが世界の中心に立つことなんかないんだよ。未来永劫ないんだ、俺がいる限りは……彼らは支配される側なんだよ。

 ……俺は、俺の家を抜けるなんて無理だ。すでに恩恵は受けていたし他の生活をしたいわけではない。だから俺に必要なのは覚悟だった……このグロテスクな社会構図を理解し、受け入れ、……覚悟をしたからこそ、跡継ぎとして認められた。十四のときだ。そのときから……百々目がお目付け役になった。

 日本語を教えてくれたのは百々目だ。俺はイタリア語と英語で育ってたからね。

 ……そう? 丁寧だといいな。百々目は反面教師、……わかった、白状する。教えてくれたのは百々目の女たちだ。だから男が話すにしては俺の日本語は柔らかいかもしれないね。自分ではよくわからないけれど……。

 当時の百々目は、……今の俺と同い年だ。厄介そうにしてたわけだ。俺も今、将来自分の上に立つ少年の世話をしろと言われたら面倒に思うだろう。百々目は、いいやつだよ。だから自分の半分しか生きていないガキを人間扱いできて……次のボスを育て上げた。……俺の仕事は、つまり、……マフィアの仕事だ。それもトップの仕事をしている。俺のファミリーの、この国の代表は俺。……百々目はその補佐だ。


「この世界で生きていくと決めた時、タトゥーを入れた。一つ入れたらもう止められなかった。俺の生き方に似合う姿になりたくて、ダウンタイムも取らずに次から次へとさ、……そしたら百々目が怒ったんだ。『俺たちのボスなんだから、ちゃんと好きなことをやれ』って……それでマフィアをやりながら、ピアニストとしてバーで働き始めた。それだけのことで、この悪癖はましになった。でも今更だ。俺は……ピアノを弾いたところで子どもには戻れない。俺は、誰よりも傲慢でなくてはいけない。すべて欲しがって、すべて支配して、すべてを搾取する。それが俺の仕事だ」


 紫貴の額から冷や汗が地に向かって落ちていく。今にも崩れ落ちてしまいそうなのに、それでも彼は口を閉じずに話し続ける。


「みどりに声をかけたのは、俺が不愉快だったからだ。隣に馬鹿な男がいるなんて耐えられない。俺のためで、少しも君のためなんかじゃなかった……なのに……君は裏もなく、俺に礼なんて言う。こんな、どうしようもない俺に……手を伸ばしてくれる……」


 彼がかすれた声で、みどり、と私の名前を呼ぶ。


「絶対に許されないと覚悟していたはずなのに、君から目が逸らせなくて、君を好きになってしまった。君に好かれたくなってしまった。君を前にすると俺は、君を好きなだけの小市民になってしまう……でも……、俺はマフィアだ。逃げようもなく、それこそが俺だ」


 彼は目を閉じたまま、私の両手を掴む。まるで祈りを捧げているみたいだ。私は彼の鼓動を聞きながら、彼の膝の上で、しかし彼の告白を受け止めきれずにいた。そのぐらいあまりにも、目の前の彼と彼の語る内容に乖離があった。けれど彼は口を閉じてはくれない。そして耳に蓋はない。私は彼の言葉を聞くしかなかった。


「……これが、俺が隠していたこと、……許されない罪だ。……こんなことを言ってはいけないのは分かっている。でも、……どうか俺から逃げないで……」


 彼の唇が私の手に触れる。彼の手に描かれた恐ろしい悪魔が私を笑っていた。

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