第5話 鬼来たりて(3)
「……この一ヶ月さ、色々あったけど、どう?」
ラグで転がる紫貴に尋ねられ、同棲を始めてからのこの一ヶ月を思い返す。
約束通り、紫貴からたくさんのことを教えてもらった。彼の最初のタトゥーがPIANOであること、最新のタトゥーは左のくるぶしに彫られた羽であること、甘いものが苦手なこと、コーヒーが好きなこと、香水のブランド、卵焼きにはマヨネーズをかけること、これまで人と付き合ったことはないけど遊ぶだけ遊んできたこと、犬が好きなこと、寝るのが苦手なこと、黒が好きなこと、左目がよく見えないこと、イタリアで生まれ育ったこと、家族が嫌いなこと、全身脱毛していて髭も生えないこと、煙草と酒はやらないこと……私は少しずつ彼を知り、更に彼を好きになった。
そんな一カ月だ。
「俺、みどりが思ってたより、格好良くなかったよね……?」
わざとらしく彼が拗ねるから、ソファーの上から手を伸ばして彼の鼻先をつつく。
「そうね、女関係は特にね」
「それはみどりが今まで俺の隣にいなかったのが悪い」
「紫貴の女問題は私のせいなの?」
「そう、みどりのせい」
「フフ、可愛い人」
この一カ月で知ったのは教わった事だけじゃない。
「……みどりは俺のこと好き?」
彼は駆け引きが嫌いなのだ。
だから言葉でも態度でも好意を伝えてくれるし、同時に私にもそれを望んでいる。
「大好き。顔も好き。体も好き。優しいところは大好き。いくら言っても足りないぐらい、私の彼氏スーパーハンサム!」
「ふへへ」
私が素直に彼に好意を伝えると、彼は気の抜けた顔を見せてくれる。こんなに可愛い人は他に絶対いないだろう。
(……とはいえ不満がまったくないわけではないんだけど)
彼は私に声をかけないで夜中に出かけることがある。一度や二度ではない。私が起きる頃には帰ってくるけれど、気にはなる。とはいえ、浮気を疑っているわけではない。この一カ月、この家で紫貴は画面が割れたスマホに全く触らないし、私も家族や友達への連絡を怠ってしまうぐらいなのだ。私たちは浮かれていて、そしてちっとも冷めそうにない。だから、彼の夜中の家出は可愛い猫ちゃんのすることとして目をつぶっている。
(だからつまり、……)
彼の隣に転がって、可愛い彼の顔を両手でつかんでキスをする。
「この一カ月は完璧な一カ月だったわ。紫貴のおかげ」
彼は私の腰を掴むと、コツン、と額を当ててきた。
「じゃあ、結婚する?」
驚く私に、彼は一呼吸おいてからまた口を開く。
「日本行って籍いれて、それからみどりのビザ申請して、……それで、ここでずっと暮らすの。ハッピーエバーアフター……どう?」
緊張した面持ちの彼が可愛すぎて、噛みつくようにキスをしてしまった。
「フフ、ンフフ、幸せ過ぎて怖くなってきた」
「……わかる、俺も」
何も怖いものがなかった。彼となら、この幸福を続けていける。いつまでも、いつまでも、本気でそう思った。
――しかし、この日の午後九時だった。
私が恋を理由に見ないようにしていた『現実』を引き連れて、『彼』がやってきた。
晩餐を終えた私たちはソファーで互いの手を触りながら『明日は何しようか』と話していた。後はセックスをして寝るだけのいつも通りの穏やかな夜。なのに、突然、家の鍵が開けられた。
「よう」
入ってきたのは『男性』だった。
前髪を後ろに流しサングラスをかけ、他人の家に入るというのにくわえ煙草。不遜極まりないスーツの男は開口一番「今度は家になってるな」と言った。私には全く覚えのない男だが、彼は明らかに紫貴に向かって話している。
「……紫貴、どなた? ピアニストのお知り合い?」
私の質問に紫貴は笑い、男は眉を寄せた。
紫貴はソファーから立ち上がると男の元に向かい、その肩を掴むと、彼を私の方を向かせた。
「紹介しておく。こちらは市村みどりさん、俺の妻になる人」
彼の紹介にときめきつつ、立ち上がって「市村みどりです」と挨拶すると、男はため息をついた。
「ついに殺しても死なない女に巡り合ったか?」
「みどりはそういうんじゃない」
彼は私のことを頭の先から足先まで、値踏みするように見てきた。
「『普通』の女ってことか?」
「さっきから『特別』って言ってるだろ。……用件は外で聞く。出ろ」
「女ねえ……」
男は私を一瞥し、「いや、ここで話す。特別だと言うなら聞くべきだ」と土足で家の中に上がってきた。
(な、な、何だ、この失礼な人!)
あんまりな態度に男を睨むが、彼の後ろで紫貴が『ごめんね』という顔をしていた。
(紫貴の親しい人なら……)
私は睨むのをやめて、改めて男を見上げた。
紫貴よりも背が高い大男で、プロレスラーのような体をしている。サングラスで目は見えないが、よほどのことがない限りは整った顔立ちをしているだろうと思わせる横顔。三十代後半ぐらいだろうか。煙草と軽薄な香水の香りがする。高そうなスーツは似合っているが、似合いすぎているとも言えた。
(この人と紫貴が並ぶと、この空間の裏社会感が……)
タトゥーこそないが彼の纏う雰囲気は殺伐としていて、身がすくむものがあった。
「……入るなら靴を脱げ」
「面倒くせえ」
男は乱暴な物言いだが、嬉しそうに笑った。彼は靴を脱ぐと玄関に向かって投げ捨てる。高そうな靴なのに頓着していない態度は、紫貴に似ていた。
「分かっているだろうが仕事の話だ」
「お前が代理できないのか」
紫貴は不審そうに眉をひそめる。
「総会は無理だ。ボスの代理はお前以外務まらない」
「総会? チッ、そんな時期か……」
「忘れんなよ。マァ、浮かれてんのは家見りゃわかるけど」
男は我が家の観葉植物コーナーを眺めながら、「で、これはお嬢ちゃんの趣味なわけ?」と急に私に聞いてきた。
(『お嬢ちゃん』? 舐めてんのか、このおっさん)
眉に力が入るが、おっさんの後ろで紫貴が『ごめんね』の顔をしていたので、なんとかおさえる。
「……私の趣味というか私たちの趣味です。アボカドは紫貴が頑張って発芽させたんですよ」
「これ、自分でやったのか! へえー、すごいな、日比谷!」
男は急に明るい声を出し、紫貴の頭を撫でた。紫貴は面倒くさそうな顔はしつつ、その手を避けない。私は私の恋人の指を掴んで、その目を見つめた。
「紫貴、紹介してくれる?」
紫貴は渋々といった様子で、口を開いた。
「
「何だ、その紹介。俺は……」
「黙ってろ、百々目」
百々目という男の言葉を遮った紫貴は「彼がみどりを傷つけることはない」と断言した。その断言に、百々目さんは面白がる顔で「Yes, Your Majesty.」と発音良く答える。
「マァ、……よろしくな、『お嬢ちゃん』」
「……よろしくお願いします、百々目さん」
嫌いな笑顔だった。
「他に用はないだろ、帰れ」
「いや、お前、ピアニストなんて……」
「出ていけ」
「日比谷、ちゃんと聞け。お前が説明してやらないと、総会の間、どうしようもないだろ? 連れていけない以上、護衛を置くしかない。適任は誰だかわかってるよな?」
紫貴は何も答えずに百々目さんの背中を蹴った。が、彼は怒ることもなく靴を履く。
「ちゃんとしておけよ、日比谷」
彼はそう言い残して、去っていった。紫貴は彼が出るとすぐに鍵をかけ、チェーンロックまでかける。それからゆっくりと振り向いた。
「びっくりしたね」
紫貴は私から目を逸らし、わざとらしく笑った。
(……怪しい)
百々目さんも怪しいが、紫貴の態度こそ怪しい。私からスーと目を逸らすときは何かしらやましいのだ。
「紫貴」
彼の腕を掴み、ソファーに座らせる。
「あなた、仕事って? 総会って何?」
「……話したくない」
彼の頬を両手で包み、目を合わせようとするが、彼は目を伏せて逃げた。
「あなたのピアノが好きよ、紫貴」
「……ウン」
「何を隠してるの。……まだ小出しにしてくれないの?」
彼はようやく私と目を合わせると、頬にキスをくれた。
「みどり、俺の話を聞いた後、逃げないでくれる?」
「ウン、もちろん」
「どうしてそう言い切れる?」
「紫貴がなんであっても、この一ヶ月があるもの。この一ヶ月、幸せで安心してたから。紫貴もそうでしょう?」
彼は返事はせずに私の腰を掴むと、私を自分の足の上に横向きで座らせた。彼の肩に頭を預けて、彼の手を握る。彼は短く息を吐いた。
「……ウン、怖いぐらい幸せだ。だから失いたくない」
「そんなに話したくないこと?」
「打ち明けてしまいたい気持ちはある。でも、打ち明けて失うぐらいなら墓場まで持っていく。みどりがいなくなったら、俺は息ができなくなる。……本気だ」
彼の右手が私の頬を包んだ。泣きそうな顔で、悲痛な声で、私の好きな人は私にすがっている。
「重いだろ、こんなの……」
確かに重い。でも、その重さは嬉しいことだ。
(だって私、この人が欲しい。この先の全部、欲しい)
彼の頬にキスをする。最初の歯を当ててしまったキスよりずっと自然に、ずっと愛を込めて彼に触れる。
「教えて、紫貴。『どうして私を好きになってくれたの』?」
彼は、ようやく口を開いた。
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