第二章 アリア
第5話 鬼来たりて(1)
温かく良い匂いのする泥に包まれている。とても気持ちが良くて、幸せだ。けれど遠くで小さな波紋が生まれる。それは穏やかに私の元まで届き、私を包む柔らかな拘束を剥がしていく。
ふと、その波紋は誰かの手だと分かる。
優しくて冷たい手が頬に触れていると分かったとき、とても清々しい気持ちで私は目を覚ました。
「みどり、起きられる? 朝ごはん届いたよ」
柔らかな朝の日差しの中、すでに起きていた紫貴がベッドに腰掛けて「おはよ」と微笑む。「おはよう」と返してから、自分がまだ裸であることに気がつく。
(昨日、そのまま寝ちゃったんだ……)
毛布を肩までかけて、紫貴を見上げる。すでに一人だけきっちりよそ行きの服を身に着けていた彼はニマニマと意地悪く笑った。
「なぁに、お姫様?」
「服を、ですね……貸していただければと……あと出来たらシャワーもですね……」
「なんで敬語なんだよ。照れてるの?」
私が顔をしかめると彼はより一層嬉しそうに顔をほころばせ、毛布ごと私を抱き締めた。
「もう。苦しいよ」
簀巻きにされた私は怒った顔をしてみるが、もちろんふざけているのが伝わってしまった。右手だけ毛布から出して、まだセットされていない彼の髪に触れる。彼は私の手に頭をこすりつけて、ふにゃりと気の抜けた笑顔を浮かべた。私もきっと似たような顔をしているだろう。
「紫貴の顔、好き」
「そう? 般若いらない?」
「いらない、やだ」
私が笑うと、彼が鼻先にキスをしてきた。
「みどりの顔、すっごい俺の好み」
「エッ? 私、普通なのに?」
「普通じゃないよ。すごく可愛い。こんな美人が何回もため息ついて人殺しみたいな目をしてんだもん、そりゃ気になるよ」
そういえば初対面はそんなだったろう。でもあのときは、と言い訳する前に紫貴は真面目な顔で口を開いた。
「あのおっさん、自転車に轢かれてほしいよね」
それは実に適切な罰則だ。つい笑ってしまった。
「アハッそうね、捻挫してほしいね」
「みどりを傷つけるやつみんな、嫌いだよ」
「私も嫌いよ。紫貴を傷つける人みんな、嫌い」
「フフ、ありがと。シャワー浴びて朝ごはんにする? アメリカっぽいけど俺は嫌いなメニューをデリバリーしてもらったの」
「何それ。気になる」
そうやってふざけながらベッドの上で朝食を楽しんだ後、私は彼の用意してくれたエッチな下着とロングパーカーをワンピース代わりに身につけた。それから私達はこの空っぽの家を埋めるための一連の作業(ホテルから私の荷物を運んでくる。家中の長さを測る。家具屋でソファーやスタンドライトやラグやクッションやカーテンを選ぶ。電気屋で各種家電を買う。セッティングする)を行った。
言葉にすると大したことはなさそうだけど、一日でこなすにはとんでもない作業量で、終わる頃には日が暮れていたし、私は疲れ果てていた。
買ったばかりのソファーの背もたれに頭を預けて、目を閉じる。
「疲れた……」
「ウン、お疲れ様、みどり。マッサージしてあげる」
しかし紫貴はほんの少しの疲れを見せることなく、機嫌を悪くすることさえなかった。
買い物中だってあれこれと理由をつけて休憩させてくれたし、変な人が絡んできても『俺が話してくるからコーヒー飲んでて』なんてスマートに対応してくれた。そうして今は足湯をつくってくれた上に、私の肩を揉んで労ってくれる。それでも私は疲れてしまっていて愛想よく返せないでいると、彼が私の顔をのぞき込んできた。
「ごめん、もっと早く休ませてあげればよかったね」
「紫貴は悪くないのに謝らないで。あなたに優しくされても、私の体力不足は改善されないわ」
疲れからキツい言い方になってしまう私を彼は後ろから抱きしめる。
「もっと好きになってほしいから、俺は下心で頑張ってるの。ね、頑張った俺にキスしてよ、みどり」
彼が私の頬を撫でて、目線を要求してきた。渋々そちらを向くと、ちゅ、とキスされる。
「ね、みどりもして?」
こんなにも可愛い彼氏に、さすがに私の苛立ちもおさまってしまう。私からキスを返すと、彼はふにゃふにゃに笑った。世界で一番可愛い顔だ。
「俺、今までみどりがいなかったのに、どうして生きてこられたんだろう」
「……もう、何それ。べた惚れね?」
「わかってるくせに。もう死んだって、俺から逃げられないからね」
「ンフフ、はぁい」
逃げられないとは物騒な言い方だ。足湯から足を上げ、タオルで拭く。足があたたまるだけでかなり体が楽になった。
「ありがと、紫貴」
「……脅されたのに危機感ないな」
「脅し? 今のが? それにどんな危機があるの、ここに?」
「見たらわかるでしょ。これ、『危険物注意』って意味」
彼が自分のタトゥーを見せつけてきたので、首筋の鯨にキスをしてあげると、彼は息を吐き、私をジトッと睨んだ。
「ア、怖い顔。いじめる?」
「フフ、いじめてやる」
「ヤー! くすぐるのは反則!」
彼は買ったばかりの毛足の長いラグの上に私を転がすと、のしかかってきた。ふざけていると分かるのに、身体をなぞる彼の手と身体にかかる彼の重さに、まだ触れられてもいない体の内側が疼きだして、吐く息に熱が混じってしまう。
気が付いたら私は彼の首に腕を回し、彼は私の足の間に身体を収めていた。欲を孕んだ視線が絡み合えば、もう、欲しくてたまらない。
「みどり……もう少し、キスしていい?」
「ウン、……したい」
彼は優しく微笑んだ。
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