第4話 夢見るように触れる(3)
窓の外、川向うの景色にはニューヨークの夜景が見えた。
(リバーサイドで、この景色。きっと家賃高いんだろうな……ニューヨークよりは安くても……)
だけど、今はそんな美しい夜景よりも室内が問題だ。
5LDKでお風呂もトイレも二つもついているというのに、どの部屋もフローリングが全部見えている。備え付け家電の他には服ぐらいしかなく、私物らしい私物がないからだ。辛うじて寝室にはベッドはある。そのベッドはクイーンサイズと大きいのだが、逆に言えばそのベッドが入ってしまってもなお、がらんどうの印象を受けるほど物がない。
新しい部屋に内見に行ったときみたいに、私達の足音や声が響くほどだ。
(なんなの、この部屋……)
そしてその部屋の住人である紫貴は、能天気にシンクに腰掛けて「温かいシャワーは最高だね。みどりも入ってきたら?」などと笑っている。
彼は着替えても黒のスウェットであるし、初めてさらされた足の甲には蜘蛛が踊っていたけど、そんなことはどうでもいい。私はマナー違反を無視して、冷蔵庫を開けた。
(これは駄目。ひどすぎる)
ワインとビールと日本酒とウイスキーのみが並んでいた。
「何を食べて生きてるの?」
「冷凍庫に入ってるでしょ、アイス」
「主食アイスなの!? ……いや、アイスって氷しかないよ!?」
「ロックで飲む酒が一番うまいらしいよ。ほら、カップアイスもどっかに入ってるだろ? ……みどり、なんでそんな怖い顔するのさ」
私は気がついた。
(『家』じゃない)
照明の調節に気が付かないのも、シャワーのお湯の出し方を知らないのも、そうだ。生活感がないのは『家』じゃない。
『紫貴』に、生活感がないのだ。
「……本当にここで暮らしてるの?」
「そんなところから疑われる?」
濡れた髪をタオルで拭く紫貴を睨むと、彼は「ええと、……」と言い訳をし始めた。
「生きていくのに必要な最低限は揃ってるでしょう?」
「生きていくだけじゃなくて、もっと、楽しくなるようなもの……そうだ。ピアノは?」
「練習したいときはスタジオ借りてる。一階にジムとスタジオがあるんだよ。そこでこのマンション選んだの」
何がおかしいのと言わんばかりの態度だ。私は紫貴の前に立って、その頬を包んだ。シャワーを浴びたばかりだからホカホカしている。しかし保湿は一切されていない。
「ドライヤーは?」
「タオルで拭けば乾くよ?」
彼の持っているものは紛うことなきペットタオルだ。
「すぐ乾くの、これ。ついでにシャワールームの水も全部ふけるからカビない、便利でしょ」
紫貴は自慢げに言った。私はめまいがした。
「……ミニマリストなの? なら、もう、余計なことは聞かないけど……」
「いや、そんな白い顔で言われてもな……何買えばいいのかわからないだけだよ。スペース空いてるなあとは思ってた。でも他に何がいるの?」
「『何がいるの』って……ねえ、紫貴、シャワー、水だと寒いでしょ? 部屋が暗いと見えにくいでしょ? お腹空いたときにご飯ないと嫌でしょう? 髪乾かさないと風邪ひくでしょう? 保湿しないと乾くでしょう?」
「ウン、困ってる。よくわかったね」
「『ウン、困ってる。よくわかったね』?」
いよいよ、クラクラしてきた。
「どうしよう、一人にしておけない、この子……」
フラついた私を紫貴が立ち上がって抱きとめてくれた。
「じゃあ、ここにいてよ、みどり」
彼はクスクス笑いながら、低い声を耳に注ぎ込んでくる。呆れて見上げると、カプと頬を噛まれた。
子どもが遊びに誘うような、そんな甘噛み。
「俺が足りないと言うなら、みどりが埋めて」
彼の手が私の腰に触れ、ドレス越しに彼の体温を感じた。するすると彼の手は私の背中を撫で、うなじにあるドレスのジッパーに触れる。
しかしジッパーは下ろされることなく、彼の手はまた私の背中を撫でて、優しく腰に戻る。
(したいのかな)
彼の目を見ると、大学のときの彼のような獣じみた目はしていない。でも雄弁に『どうする?』と聞いていた。
(……もう少し、触って欲しい)
彼の腰に手を回し彼の胸に耳をつける。トク、トク、と聞こえる鼓動は、私と同じぐらい早かった。
「観葉植物とかラグとか可愛いカーテンとかソファーとか、色々、他にも……私には必要なの。紫貴にとって必要最低限に入らないものばかりだけど、いいの? ……邪魔じゃない?」
「みどりが要るなら俺に必要なものだ。一緒に買いに行こう。俺も頑張って調べる、興味ないけど」
「もう……素直だなあ……」
彼の気持ち、彼の形を確かめるために、スウェットの裾から手を入れて、彼の腰に直接触れてみた。
(身体、あったかい……)
彼は真似るように私の腰を撫でながら、「似合ってるよ、ドレス」と低い声で囁いてくれた。
「でもずっと、脱がせたかった。ごめんね、男で」
「……脱がされるんだと思って準備してきたもの。怖くなんかない」
「いい子、……顔上げて」
紫貴からの二回目のキスは、優しく始まった。
緊張している私に寄り添うように、優しく唇が触れ合う。子どもの戯れ、天使のいたずら、そんな言葉が似合うキス。
私の隙間を埋めてくれる、多幸感。
彼にとってもそうであればいいのにと願いながら、舌先でキスに応える。すると私に応えるように、彼のキスは深く、重くなっていく。一歩ずつ、彼が私の中に入り込んでくる。
(私に合わせてくれてる)
チカチカと頭の中に、『ナニカ』、走る。
(安心して、この人のこと、好きになっていいんだ)
彼の唇が離れたとき、追いかけてしまう。
彼は当たり前のように戻ってきて、宥めるように、諌めるように、キスを続けてくれる。経験の少ない私を、優しくエスコートしてくれる。息がもたなくて、しがみつけば、彼は力強く抱き返してくれた。
「……ア、」
背中に回された彼の手が、ドレスのジッパーを優しく下ろしていく。髪を挟まないように、服を痛めないように、それから私をおびえさせないように、ゆっくりと、優しく、脱がされていく。
彼の吐息が耳に当たる。焦らされているようにさえ、感じた。
首や耳にキスをされ、背中や腰を撫でられながら、与えられたドレスは脱がされた。晒された肌が寒さを感じる。
(あ! 下着、そういえばっ……!)
ハッと思い出して恥ずかしくなって、彼の視界を隠すために、彼の頭を胸に抱きかかえる。彼は「わわ」とわざとらしく声を上げて、しかし抵抗なく私に抱きかかえられた。
「みーどり、見せて」
「ま、まって……」
しがみついたままでいると、「ウン」と彼は笑った。
彼の頷き方はいつもの通りだ。何でも受け入れてくれる、いつもの声だ。そっと力を抜くと、彼は私の腕を抜け出して代わりに私を腕の中に閉じ込めた。
「可愛い、似合ってる」
「これも、紫貴が選んだの……?」
「当然。俺の好みだ。興奮する」
彼は嬉しそうに笑いながら、私を姫抱きにしてしまった。首にしがみついて「重くない? あの、私、ほら、急で、そのダイエットとかできてなくて、おなかとか、あの……アッそうだ、シャワー……」と言い訳していたら、キスで言葉を封じられてしまった。
「シー、……みどり、静かに。大丈夫だから。俺についてきて」
そうして、彼は私をベッドに連れて行ってくれた。
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