第3話 労るように交わし(5)


「おまたせ、みどり」


 夕方、私史上完璧なメイク、完璧な髪型、完璧なネイルで、首と胸元に香水をつけて、ダウンコートを身にまとい、ホテルのラウンジのソファーに埋まっていたら、頭上から低い声がふってきた。

 時間通りにやってきた紫貴が、ソファーの背もたれの向こうから私を覗き込んでいた。


(エ、黒くない!)


 紫貴はいつもの真っ黒なコーディネートではなく、深い紺色のシャツに青を貴重としたスーツ、ベスト、ネクタイまで締めていた。チェスターコートと手袋は黒だったけど、とにかく全身真っ黒ではない。そのことに私が驚いていると、彼は私の驚きがわかったのか「スーツの黒はさすがにさ……」と苦笑した。


「窮屈だから仕事以外で着ないけど、持ってることは持ってるの」

「スーツでピアノ弾くことあるの?」

「エ? あァ、いや……」

「素敵だろうなぁ。こんなに、素敵だもの……」


 こんな『普通の人』の服装をしていると、彼は完全なる好青年だった。シャツの首元から少しだけタトゥーが見えるけど、それを含めて、アニメのヒーローみたいに格好いい。キラキラと輝く銀髪、優しい微笑み、身体のラインに沿った艶のあるスーツ、モデルか俳優かのようだ。


(顔がよくて、優しくて、身体も綺麗で……エ、完璧じゃない? 私の彼氏、完璧じゃない? 私、前世でよほど徳をつんでいたのかしら……)


 うっとりと見上げていると、彼はスーと私から目線を逸した。


「……みどりのその視線、破壊力がすごい」

「エ?」

「無自覚かぁ、……OK.」


 彼の『OK』の発音が現地の人らしくて格好良く思えた。彼は私の座っているソファーの前に回り込むと、手を差し出してくれた。彼の手を取って立ち上がる。


「みどりのコートを脱がすのはお店でね。お肉は好き?」

「エ、ア、好き!」

「よかった。じゃあお肉のおいしいお店を行こう」


 彼の腕を掴むと、フワリと彼の匂いがした。そのまま彼のエスコートで彼の車に乗り、彼の運転で彼の言う『お肉がおいしいお店』に向かうことになった。


「髪、可愛いね。くるくるだ、好き」

「えへへ、頑張りました」

「爪もピカピカだし、メイクもドレスに合わせてくれたの? プリンセスみたいだな、素敵」

「頑張ったところ、全部褒めてくれる……どうしてわかるの……もう、嬉しい」


 私が足をパタパタさせると、彼はクスクス笑った。

 彼がこちらを見られないことをいいことに運転中ずっと見つめていると、彼はため息をついて「えっち」と笑った。そんなことないと怒ってもよかったのだけれど、そんなこともないこともなかったので、反論はせず、大人しく助手席に座っていた。

 紫貴が連れて行ってくれたのは、ホテルから十分ほど運転したところにある、ものすごい高いビルの、ものすごく高い位置にあるレストランだった。


「え、ここ?」

「ウン、行こう?」


 私が入口で躊躇しても、彼が私をエスコートしようとするので、なんとか引き止める。


「待って。本当にここ?」

「ウン?」

「だって……」


 残りの貯金を頭を思い浮かべ、家にあるもので売れそうなものを並べ、目を閉じて、指で頭の中のそろばんを弾いてから口を開く。


「……分かった、なんとかします」

「今、変な計算してなかった? 俺は彼女に財布出させたりしないよ」

「そんな格好つけないで。紫貴の仕事はよく知らないけど、音楽で稼げるのはモーツァルトだけでしょ?」

「アハ。じゃあ今日からそこの欄に俺の名前も書いといて」

「紫貴、ふざけてないで。お金は大事なことだから。もう色々もらってるから、ご飯ぐらいは私に出させて。ね?」


 足元はふかふか絨毯、天井からはキラキラシャンデリア、待ち構えているウェイターとウェイトレスはみんな笑顔、そうして私の隣にはタトゥーだらけの彼氏。

 どう考えても場違いだ。


「ねえ、帰ろう?」


 紫貴は振り返り私の顔を見るや否や、耐えきれないという風に、「あぁ、もうだめだ。ククク」と笑い出した。


「ちゃんと聞いてってば……」

「いや、ウン、聞いてる、聞いてる、……でもなあ、フフフ……」

「ね、無理しないでもっと安いところで……」

「大丈夫だよ、みどり。……あのね、俺、すっごいお金持ちなの。みどりの考えてることの『逆』だよ。ピアニストだから貧乏じゃなくて、稼ぐ必要がないからピアニストなの」


 紫貴がコートを脱ぐとウェイトレスがやってきて、恭しく彼のコートを受け取る。彼はウェイトレスを見もしないで手袋を外す。彼のタトゥーだらけの手をみても、ウェイトレスもウェイターも気にする様子はなく、やはり恭しくそれを受け取り、何かを彼の耳に囁く。彼も何かを囁き返してから笑った。


「ここも行きつけだから、贔屓してくれてる。いい席を空けてくれたって」

「……嘘ついてる?」

「嘘ついてる顔じゃないでしょ?」


 たしかに彼の目は嘘をついている人のものではなさそうであったし、周りの人たちの紫貴に対する視線は完全に『VIP対応』だ。

 急に不安になってきた。


「……ねえ、もしかして今日の私の服ってすごく高かったりするの?」

「あ、そうだった。コート脱がせるね。後ろ向いて」

「ワアッ、ちょっと、ワワ……!」


 彼は私の肩を掴んでクルリと後ろを向かせると、執事のようにコートを脱ぐのを手伝ってくれた。コートを脱がされてドレス姿になると、さらに不安になってくる。


(大丈夫かな、もしそんな高いドレスなら……ちゃんと着られているかな、私……)


 恐る恐る振り返ると紫貴は嬉しそうに笑っていた。

 彼の顔は全て受け入れてくれる、私が好きになった顔だ。


「最高。みどりは気に入ってくれた? 俺のセンスもなかなかでしょ?」


 胸から心臓が出ちゃいそうなぐらい、ドキドキしてしまう。開いた胸元を隠すように手を前に組むと、紫貴が私の手を掴み、「隠さないで」と笑う。


「俺に金ないって思ってるのについてきてくれたなんてなあ、……たまんない、可愛い」


 彼が私の手に唇を押し付けて、幸せそうに微笑んだ。その顔に全身がドキドキしてしまう。


「……どんどん好きになって困る」

「困ることじゃないじゃん。俺もみどりを逃がすつもりないから、安心して落ちておいで」


 彼は私のコートをウェイターに預けると、「いこ」と私の手を自分の腕に導いた。

 お客さんはみんなドレスアップしていて、みんな洗練されていて、みんな自信満々に見える。店に入ると、まるで海外ドラマのリッチなパーティーみたいだ。彼はとても慣れた様子で、場違いなのは私だけな気がしてきた。


(紫貴に恥はかかせられない……!)


 彼の腕を支えに背筋を伸ばして、いい女を意識して歩いた。

 マンハッタンの夜景が全面に見える席に腰掛けたときには、もう少し疲れていた。私の疲労がわかったのか、紫貴は眉を下げ「先に言っておけばよかったかな」と苦笑する。


「今日のお店は高いよってさ」

「そんな……ことを言われても困ってたと思う」

「それもそうか。マア、これから知っていけばいいしね。……みどりも教えてくれる? 俺に教えたいことがあるんでしょう?」


 彼は、あの喫茶店のように机の上で私の手を握る。

 彼の手はどこでも、いつでも『好きだ』と私に伝えてくれている。だから彼の手に触れられたとき、溜まっていた緊張がほぐれるのがわかった。


「紫貴が触ってくれると安心する」


 彼の手を握り返し、ほ、と息を吐く。

 それから私のことを、一つ、一つ、話し始めた。

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