第3話 労るように交わし(3)
「ニューヨークの恋愛ドラマみたいだった」
「それを狙ったもん。みどり、好きなんでしょう? マア、こういうことするなら治安悪いところの方が客がのってくれて面白いけどね」
「治安の悪いところ? デトロイトとか?」
「アハ。何、どんなドラマ?」
「映画。吸血鬼が出てきて、最終的に人が溶けるの」
「ハハハッシカゴには連れていけないな」
演奏を終えた紫貴が首の汗を拭きながら、クスクスと笑った。
彼は寄ってくるお客さんからチップを受け取りながら『またその内やるよ』と返している。紫貴の英語は他の人に比べればまだ私の耳でも聞き取りやすいが、他の人の英語は早すぎるし、長すぎるから途中でついていけなくなってしまう。
とりあえず彼の隣で愛想よく笑顔を作っておいた。
彼は幾人かのお客さんと話したあと、私の顔を見て、優しく目を細めた。
「よくわかってないのに、そういう顔してると危ないよ」
「エ?」
「この子は押せば何とかなると思われる、俺に」
「紫貴に?」
「あと知らないおじさんに」
紫貴ならいいけど知らないおじさんは嫌だったので愛想笑いをやめる。彼は分かりやすい私の表情の変化にクスクスと笑い、指先で私の髪先に触れた。
「ほっぺた触りたいけどお化粧してるし、髪もセットしてるから駄目だよね? どこならいい?」
「どこって? 手慣れてるのね」
「違うよ。これもドラマみたいでしょう? 好きでしょ、そういうの」
確かに言われてみたらそうだ、私はやっぱり笑ってしまった。
(私がドラマ好きって言ったから合わせてくれてるのね。ずっと私だけを楽しませようとしてくれてる)
嬉しくて、つい調子の乗ってお姫様みたいに左手を差し出してみた。
「じゃあどうぞ。よきにはからえ」
「なあに、偉そう。好きだな、そういうの」
彼はニヤっと笑うと両手で私の手を掴み、手の甲にキスをした。でも騎士みたいにじゃない。まるで犬が犬にするみたいに、彼は私の手に飛びついてきた。
「ちょっ、ちょっ、紫貴さん!」
「紫貴でいいってば。ガブガブガブ……」
「何よ、その音!」
チュッチュッとわざとらしいリップ音つきで、こちらの都合は考えてないけど、親愛のこもったたくさんのキスが左手に押し付けられる。くすぐったくて手を動かすと手のひらにまでキスをされた。
私の手に鼻を埋めて、彼はすごく楽しそうに笑う。
「ありがと。久しぶりに楽しい演奏だった」
「お礼は私! すごく楽しかった。本当に、すごく、……ありがとう」
「惚れ直した?」
「……ウン」
彼は私の左手を自分の頬に導いてくれる。
汗ばんでいて、温かい肌だ。彼は目を伏せて、少し息を詰めた。
彼の唇が動きだすのを、私も息を詰めて、見つめる。
「こいつを、自分の彼氏にしたいよね?」
右手を伸ばして、両手で彼の顔を包むと、彼の視線が持ち上がり、目が合った。
「嬉しい。……嬉しい、紫貴」
つい気持ちを返すと、彼は眉をひそめる。
「ちゃんと言って。曖昧に始まって、とりあえずセックスして、曖昧に終わるのは嫌だよ」
そんな明け透けなこと、彼以外に言われたら絶対に嫌だった。でも、彼に言われると『拗ねた言い方が可愛い』と思う程度には私の脳は溶けている。
つまり、――『私は彼がすごく好き』ってことだ。
そんなこと、さっき口を滑らせてしまったし、彼はすでにきっちりわかっている。なのに、彼は緊張した様子で、私の言葉を待ってくれている。だから、この告白がとても大事なことなのだとよくわかった。
(そうだ。私も『口説く』って言ったんだ)
私は深く息を吸った。
「彼氏になってください! 他の子には優しくしないで、私だけ特別にして! あと今度、一回だけでいいから私の好みの服を着て!」
「……変な要望付け加えたね?」
彼はムとわざとらしく顔をしかめてみせたけど、耐えられなかったのか、ニマニマと笑い出した。私の手に頬を寄せて「嬉しい、みどり、やった、これで俺の彼女、可愛い彼女」と歌うように彼がつぶやく。その言葉が嬉しくて、私もニマニマ笑ってしまう。
(やったー! やった、やった、やった! 私の彼氏! 紫貴が! 嬉しい!)
彼はまた私の手の平にキスをしてくれた。それが可愛くて、好きで、嬉しくて、ドキドキしてしまう。
「紫貴は私にしてほしいことないの?」
彼は少し黙ってから、口を開いた。
「他の男についていかないで。特に筋肉達磨野郎にはついていかないでね」
「なあに、それ。筋肉なんて興味ないよ。紫貴だけ。そんなの当たり前でしょ?」
「あと手伝うからすぐにビザとって」
「エッ」
彼の目が真剣だった。
「君は俺が好きなんだから帰れるわけないでしょ」
ドスン、と胸に突き刺さる言葉だった。勝手に顔が赤くなるのがわかる。
(急に強気、……ずるい! なんで付き合った後もまだ好きになる要素が出てくるの!)
私の顔を彼は怪訝そうに見つめていた。
「今、無茶を言ったんだけど……?」
「ウ、エ、ウ、だって、紫貴、顔がいいから、俺様が似合う、ずるい……」
「イケイケがいいってこと? 早く言ってよ。そっちのが得意だから」
「急に距離を詰めないで! ドキドキするから!」
「それはいいことでしょ。もっと俺にドキドキして?」
彼は私に顔を寄せて、入れ墨だらけの手を私の腰に回す。けれど力を込めるわけではなく、私に伺いを立てるように優しく、引き寄せてくれた。彼の胸からはムスクとバニラの混ざった甘い香りと革のような苦い香りがする。大人の男という感じがして、彼によく似合っていた。
「あのさ、今日……」
彼が話しだしたタイミングで、どこかで携帯が振動する音がした。彼は舌打ちをすると、私を抱き寄せたままポケットから携帯を取り出す。彼の携帯は最新式のiPhoneで、画面がバキバキに割れていた。
彼は「ごめんね」と私に断りを入れると、電話に出た。
(あれ? これ、英語じゃない?)
イタリア語かスペイン語あたりだろう。彼は英語のときと違い、こもるような聞き取りにくい声で話した。早口で少し怒っているみたいだ。ペラペラ話したあと、最後に「くたばれ!」と日本語で罵倒してから、彼は電話を切った。
「くたばれって……」
彼は私を抱き寄せ、甘えるように私の肩に額を押し付けてくる。可愛い。こんなの彼女特権だ。彼の肩に腕を回してみると、ぎゅうと更に抱きしめられた。
「電話、同僚からで。この後、仕事入れられた、……ハァ? なんで今?」
「ア、ウン、そっか。でも、くたばれはよくないんじゃ……」
「やぁだ、今日みどりを家に連れ込むの」
「それは……そっか、ウン……」
彼のうなじに触れる。刈り上げられた後頭部からうなじはまだ汗ばんでいる。ハア、と彼のため息には熱がこもっていた。
「みどり」
彼の低い声が耳にそそがれる。ゾワゾワと寒気が走った。彼が頭を持ち上げたので手を離すと、彼はニヤニヤしていた。
「えっち」
カァ、と顔が熱くなった。
「ダ、……う、ばか!」
「しょうがない彼女だな、朝の十時まで待てる?」
「何それ、私が変態みたいな言い方は……エ、朝の十時? 朝までかかるの?」
「ウン、そんぐらいかなぁ、帰れるの」
心配になって「寝てる?」と聞くと、彼は嬉しそうに「寝てない」と返してきた。なんで嬉しそうなのかと思って眉をひそめると「みどりがいてくれたら寝られるかも」なんて笑う。
「そんなに連れ込みたいの? ……私のこと、よく知らないのに?」
「そう? あァ、確かにまだ名前と年と、俺のことが好きで、口説くの慣れてないのに頑張っていて可愛いことしか知らないか」
「馬鹿にしてる?」
彼が目を細める。優しい彼の笑顔だ。
「みどりが教えてくれるなら、嬉しいよ」
「……じゃあ、今度のデートで」
「明日だよね?」
「いや明日は……だって紫貴、寝ないと」
「付き合ってんのに毎日会えないの、イ、ヤ、ダ」
その無茶苦茶な発言に彼も浮かれているのがわかった。だから、笑って明日のデートの約束をした。
彼はホテルまで私を送ってくれ、そしてまた名残惜しそうに帰っていった。彼が何度も振り返るのが可愛くて、彼の車が完全に見えなくなった後もしばらく私は悶えていた。
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