第3話 労るように交わし(2)
レーズンサンドウィッチは焼き立てレーズン入り食パンにバターがたっぷりの時点で絶対に美味しいのに、具は新鮮な野菜とジューシーなチキンなのだから、もうずるいとしか言いようがない美味しさだった。
「アメリカはもっと大味なのかと思ってました」
「フフ、気に入ってもらえてよかった」
紫貴さんは「ベタベタドーナッツはまた今度ね」とあんまり心惹かれない内容だけど、次の約束をしてくれた。彼のおすすめのコーヒーは私には苦すぎたけど、彼はマスターを呼ぶとラテを頼んでくれた。そうして彼は当たり前みたいに、私が口をつけたコーヒーを飲んでしまう。
「……虫歯菌が移りますよ、紫貴さん……」
「アハ、何、その照れ方。ラテ、美味しい?」
蜂蜜入りの甘いラテの方が口に合う私と、開き直って余裕が出てきた紫貴さんは不釣り合いかもしれないと不安になる。でも彼はずっと、目や、指や、態度で、ちゃんと好意を伝えてくれる。
(朝からお腹いっぱいになる……すごい、幸せ)
私と目が合うだけで彼の目が笑ってくれる。『エイッ』と足先をぶつけてみると、お返しみたいにぶつけ返してくれる。彼は少しも嫌そうではないし、私もそれが少しも嫌ではない。ただ楽しくて、嬉しくて、恥ずかしくて、ドキドキして、……浮かれている。
「甘くて美味しいです……ラテ『も』」
「ウン、……失敗したな。ここじゃなくて、二人きりになれるところに連れてくればよかった」
――相手が自分のことを好きなのだ。
それがわかって安心している空気はベッタベタのドーナッツみたいだ。食べなくもわかる。空気だけで、もう甘い。そしてその空気の中にいるのが、たまらなく楽しい。
だからこそわざと口をとがらせて、拗ねた振りをしてそっぽを向いてみる。
「ヤ、折角のニューヨークなのに」
「確かにそれはそう。したいこと出てきた? 自由の女神見に行く?」
彼はそんな私の態度にも機嫌を悪くすることなく楽しそうについてきてくれる。だからさらに安心して、さらに浮かれてしまう。
「タイムズ・スクエアの音が聞きたいですし、セントラル・パークでお散歩したいです。あと現代美術館も行きたくて、それから、図書館と……呆れてます?」
「まさか。楽しそうだ、定番観光。俺、美術館はほとんど見てないな……動物園とか水族館とか? クルーズもしてみる?」
「ア、行きたい! 全部素敵!」
「可愛いな、みどり」
サラリ、と、彼は一歩近づいてくれた。
息を飲むと「嫌?」と聞いてくれる。「嫌じゃないけど、照れます」と返せば、「俺も照れてるから一緒」なんて、こちらに寄り添ってくれる。
(この人は、からかって笑ったりしない)
だからこそ、こちらからも一歩近づける勇気が出た。私は深く息を吸って、口を開く。
「紫貴……、……さん……」
「頑張れ、頑張れ」
「もうー……、紫貴」
「ウン」
手に触れると、もっと触れたくなる。キスがしたくて、ついその口元を見てしまう。近づきたくて、足でちょっかいをかけてしまう。そうやって浮かれる私を、彼は頷き一つで全部受け止めてくれる。
だから理性が安心して、下心も恋心がどんどん前に出てくる。
(今、したいことは、……はっきりしてる)
深呼吸してから、口を開く。
「……紫貴と二人っきりになりたい」
「ふうん、えっちじゃん」
「ばか!」
彼は歯を見せて子どもみたいに笑った。その顔を見ていたら、私も笑ってしまった。
(もう、ニューヨークでしたいことはない。この人とニューヨークでしたいこと、だ)
だから手を伸ばして彼の手を捕まえて、彼の目を真っ直ぐに見る。
「一人で英語で注文したり、一人でスーパーで買い物したり、運転もしてみたい。ここで、その、暮らす練習、みたいな……」
踏み込みすぎたかな、と不安になったけれど、彼の口はすぐ嬉しそうにニマニマと笑い始めてくれた。
「……嬉しい。そんなところまで考えてくれてるの? 俺が日本行く方が楽とは思わない?」
「そりゃ楽ですけど……、楽だけど! 私、楽がしたいんじゃないの。頑張りたいの。やりたいこと、全部したい。この街で遊ぶだけじゃなくて……でも、一人じゃまだ何もできないから、手伝ってくれる?」
「わかった、ビザ取ろう」
「ちょ、話が早すぎっ!」
彼は右手で私の左手を握り、左手で自分の顔を乱暴に拭う。
「敬語じゃないと、より可愛いな。もっと気安く話して」
「……そういうこと言わないで」
「馬鹿にはしてないよ?」
「それは声でわかるけど、一杯一杯になっちゃうから」
「先に俺の事、そうしたくせに……みどり」
彼は私の右手を自分の頬に導いた。タトゥーのない彼の顔に手のひらが触れる。あたたかい人肌、当たり前のことだけど、生々しい体温に指先から電気が走ったみたいに全身が震える。
「みどり」
彼が私の名前を呼ぶ。
ただ名前を呼んでいるだけなのに、世界で一番嬉しい、そんな顔をする。
「紫貴」
「ウン」
彼の名前を呼ぶ。
それだけのことなのに、世界で一番嬉しいことみたいに笑ってしまう。
「……紫貴、……早く、好きって言いたい。……、アッ!」
雰囲気に酔って、ボロ、と本音が出てしまった。
「……」
「……」
流石の彼も口を『ハア?』と広げていた。
そりゃそうだ。彼が色々考えた上でここに連れてきてくれたのに、こんな何もしていないときに先に言ってしまうなんて……カァアと自分の顔が赤くなっていくのがわかる。慌てて手を引っ込めようとしたら、「待て待て待て、おばかさん」と握り返された。
「そりゃ、もうわかってるけど、そんな……」
「す、すいません、っ……」
「嬉しい」
「エ?」
彼の頬に触れていた右手が、ほろ、と溢れた一粒の涙に触れた。彼も驚いたのか「あれ」と呟く。その、ほんの一粒の涙は拭うまでもなく、消えてしまう。
(綺麗)
彼は瞬きをして、それから柔らかく微笑んだ。
「ピアノ、弾いてくる」
「……ウン、楽しみ」
「みどり」
彼は椅子から立ち上がると、他の客から私を隠すみたいに私の前に立った。彼の両手が私の頬をすくい上げ、彼が体を折る。彼の銀髪は店の光を吸い込んで輝いていて、彼の長いまつ毛は世界で一番完璧なものに見えた。
(天使みたい)
彼のキスは欲を感じないぐらい優しかった。なのに、ずっと欲しかったものをもらったみたいに、満たされて、ホッとした。
「俺も、すごい好き」
「……知ってる」
「ア、ひどい女め」
彼は笑うと、店の奥のピアノに向かって歩き出した。道中、他の客にからかわれても、彼は笑うだけ。すごく幸せそうに足取りは軽やか、はしゃぐ子どもみたいに楽しそうに、彼はピアノの前に立つ。
そして立ったまま彼はピアノを弾き始めた。
(あ、)
ほんの一瞬で、彼が店の中心となった。彼の奏でる音楽に店中の客が笑顔になって、外からどんどん新しい客が入ってくる。そしてみんな、みんな、彼を見ている。
「……楽しそう」
店の一番奥の彼から、喜びが伝染していく。彼のキラキラの笑顔が、次から次へと伝播していく。指笛を鳴らして踊る人が出てきたと思ったら、彼に合わせてギターを弾く人も出てくるし、気がついたらドラムまでいて、有名な曲になればみんな歌い出す。
空気が踊っている。
彼は私を見つめて、笑う。
(ムードのある曲にするかと思った。そんなんじゃないんだ)
飛び跳ねるように弾く彼から、『楽しい』、『嬉しい』、『喜び』、『幸福』、そういう明るいものが飛んでくる。
(こんな風に、……好きでいてくれるのか)
他の客にも私と彼の関係がわかるのか、前に連れ出されてしまう。英語は聞き取れないけど、意味は分かる。だから連れ出されるままに席を立って、導かれるままに足を動かすと、気が付いたら彼の隣にいた。
空気が踊っていて、客も踊っていて、みんな笑っている。
空気に飲まれて、顔が勝手に笑ってしまうし、煽られるみたいに下手くそなりに踊ってしまう。彼が肩をぶつけてきたら、楽しくってケラケラ笑える。
大きな音楽の波の中で、彼が私の耳に口が寄せる。彼の低くて優しい声が鼓膜に触れた。
「ニューヨークへようこそ」
今それを言うんだと、私はお腹を抱えて笑ってしまった。
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