第3話 労るように交わし(1)
紫貴さんが連れてきてくれたお店はニューヨークのミッドタウンエリアにあるジャズ喫茶だった。
「ここ、夜はバーになるんだよ。だから朝から飲もうと思えば飲めるよ。どうする?」
「さすがに朝からは飲まないですよ。紫貴さん、飲みたいんですか?」
「俺は車があるから」
彼はマスターに挨拶をして、勝手知ったる様子で奥の席に座った。
注文をせずとも彼の前にはすぐコーヒーが置かれ、私の前にはモーニングメニューが置かれる。万年筆で書かれたメニューはコーヒーのシミだらけで、それが妙に味があった。
(でも、値段のところが染みて、読めないのがある……全部十ドルぐらいだから一五〇〇円ぐらいかな……)
悩んでいると、紫貴さんが「お薦めはこれ」とレーズンサンドウィッチのセットを人差し指で指した。
「なら、それにします。……Excuse me,I'd like to order. (すみません、注文したいのですが)」
マスターは私の注文を聞いて、一度頷いてくれた。紫貴さんも私の英語を聞いて「思ってたより上手」と褒めているのか馬鹿にしているのかわからない賛辞をくれた。が、私の英語力は彼と比べることすら烏滸がましいのはわかっていたので、素直に「勉強します」と笑えた。
店の奥には小さなステージがあり、そこに古いピアノが置かれていた。
「いつも、あのピアノで演奏するんですか?」
「ウン」
「今日も、弾いてくれますか?」
「……ウン」
彼が机越しに手を伸ばしてきて、私の両手をとらえた。
彼の指にはPIANOという文字以外にも、羊の顔をした悪魔や、よく読めないけどvから始まる単語、指輪のような形のもの、様々なタトゥーが描かれている。机の真ん中で彼の模様のついた指が私の手を撫でるから、私も彼の手の甲を撫でる。
私達の指が絡まりあう。指で、好きだと言い合っているようだ。
彼の目を見ると、彼も私を見つめてきた。視線でも好きだって言っているみたいで、恥ずかしくて、嬉しくて、ついにやついてしまう。一方で、彼は緊張した面持ちだ。
「ピアノは、俺の持ってる一番優しいところ。だからみどりさんに聴いてほしい」
「……、つまり、ちゃんと、口説いてくれている?」
「……ウン」
素直に「嬉しい」と言葉にすると、彼は「なんか、失敗しそう」と弱音を吐いた。それも嬉しかった。彼の手の甲を指先でくすぐり返すと、彼は頬をゆるませて「嬉しい」と微笑む。
「ここは俺の職場の中だと治安がいいところなんだ。モーニングも美味しいから楽しみにしていて」
私の手をぎゅうと握ってくれている彼の手は、相変わらず冷たかった。
なんとか彼の手をあたためたくて、彼の手に口に近づけて、「仕事がうまくいきますように」と息を吹きかけると「あったかい」と彼は笑った。
「もう少し私が英語を話せるようになって、もう少しこの街に慣れたら、ここじゃない紫貴さんの職場にも連れて行ってくれますか?」
彼は困った顔をした。連絡先を聞いたときと同じ顔だ。だから、今度は慌てずに彼の言葉を待った。彼は言葉を選んでから、ゆっくりと話し出した。
「……怖いんだよ」
「何が怖いんです?」
「君が好きなところだけ、持ってる俺だったらいいんだけど、そうじゃない。きっと、俺の『現実』を目の当たりにしたら、きみは傷つく。それが怖い。だから、せめて、小出しにさせて。いつかちゃんと、……ちゃんと、話すから」
彼の声は落ち着く声だった。
「私が傷つくのが怖いんですか?」
「怖いよ。すごく怖い。嫌われるより怖い」
間髪入れずに彼がそう返してくれたから、私は逆に安心してしまった。嫌われたくないから嘘をつく人ではないのだ。大学生の頃の彼氏とは大違いだと思い、比べるのも失礼だなとすぐに反省し、彼に笑いかける。
「じゃあ、今日は紫貴さんの一番優しいところを教えてください」
「ウン、……お返しに何を教えてくれる?」
「エッ」
「エッじゃないよ。俺が本気になったらもう、俺を口説くの飽きちゃったの?」
彼がからかうように笑う。口説くときはこんな顔をするのかと目眩がした。疑って行動しないことをやめた紫貴さんは、ゾッとするほど色男だ。
(本気になってくれてるんだ)
好きだと言うより深く対話を求められているのがわかって、……恥ずかしくて嬉しい。時差ボケなのか、色ボケなのか、どちらもなのか、夢の中を歩いているみたいに、クラクラする。
「じゃあ、私も……たくさん口説きます」
「ウン」
彼の冷たい手を握り返すと、彼は嬉しそうに目を細めた。
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