第2話 軽やかに知り合い(6)
「連絡先聞かれたときに詐欺だと思った」
左ハンドルで運転する紫貴さんの横顔を見つめていると、不意に彼がそんなことを言った。文脈も何もない発言に「ヘッ?」と返すと、彼はニヤリと悪役みたいに笑う。
「でも詐欺なら、こんな蛇を相手にしたのは失敗だったよ。絶対後悔する」
「蛇?」
タトゥーだらけの彼は「俺。模様が蛇っぽいってよく言われる」と冗談とも本気ともとれることを言って、笑う。その皮肉っぽい笑顔に「もっとその蛇のこと知りたいです、捕まえたらわかるんですか?」と返した。彼はム、と黙ってから、チラ、と横目で私を見た。私も同じ顔をしてミラー越しに見返すと、彼はフンと鼻を鳴らした。
「絶対にロマンス詐欺。これから俺はみどりさんに金を搾り取られるんだ」
思わず笑ってしまうと、彼はムムとした顔で「マア、それでも楽しいからいいんだけどさ……」と、やはり冗談なのか本気なのかよくわからないことを言う。
(紫貴さんに言われる台詞じゃないでしょ)
私は腕を組んで、フン、と彼を真似て鼻を鳴らした。
「そんなこと言うなら紫貴さんこそ、モテるのに私なんかとデートしてくれてるのって、どう考えても裏があるじゃないですか……」
紫貴さんは怪訝そうに目を細める。
「ン? エ? エ、俺がモテると思ってるの?」
「エ、ハイ」
「ははは……」
乾ききった笑いだった。意味が分からず「エ?」と聞き返すと、彼は「はぁー……」と深く息を吐く。それから、乱暴に左手で右腕のシャツをまくりあげた。
晒されていた指と同様に、無秩序に、言われてみればたしかに蛇の模様のようなタトゥーの群れがそこにはあった。その模様の奥には筋張った鍛えられた腕が見えて、『やっぱりモテそう』と私が思っていると、彼は「ありえないでしょ」と皮肉っぽく笑う。
「説教されたり、十字切られたりはよくあるけど……連絡先なんて聞かれない」
「『そういうの』が好きな人はたくさんいらっしゃるでしょう?」
「『こういうの』が好きな人は、俺みたいなやつは好きじゃないから、そっちにはそっちでモテない」
「……どういうことですか?」
彼は「俺、好きな子には優しくしたいし、優しくされたいから」と当たり前のこと言って、皮肉っぽく笑う。
「何がいけないんです。好きな人には、みんな優しくしたいし、優しくされたいでしょう?」
「みどりさんはそうなんだね、よかった」
サラッと彼はそう言った。まだ一度も食事もしてないのに、好きだとも言っていないのに、サラッと言ってしまう。
「……そういうところ、詐欺みたい」
「こっちの台詞」
「だって、いいんですか? 私、本気にしますよ?」
「それも俺の台詞。本気にさせていいの? 怖いよ、俺。見たらわかると思うけど」
本当に心から『私が騙してる』と思っているのか、諦めた様子で「傷つけないでね」なんて彼は笑ってしまう。たまたま彼の周りの人々の目は節穴ばかりで、だから彼が誰にも見つかってない……、そんな私にとって都合のいいことがあるなら最高だ。
(そんなことあるわけないじゃん)
でも、そう思って、だから無理だと諦めて動かなかったら、今、こんな風に助手席には座ってない。こんな近くで彼の笑顔は見られていない。あの機内で何もしなかったら、……しない後悔より、する後悔、……私はそう決めたのだ。
(騙されていても、いい。後悔する覚悟はしたんだ)
赤信号で車が止まる。
「そういえばモーニング、俺のおすすめの店で……」
彼の言葉を聞かずに、彼の肩に手を添えて、頬にキスをする。勢いが良すぎて、彼の頬と前歯がガチンとあたってしまった。
(すごい音、した……)
唇を離し、ゆっくりと離れる。彼もゆっくりとこちらを向く。本当に驚いた顔をしていた。私はきっと真っ赤だろう。
「自分から人にキスしたの初めてで……海外ドラマみたいに、上手くできなかったですね……」
「……ア、……ウン」
「何ですか、その、気のない返事……」
沈黙の中、信号が青になり、クラクションが鳴る。彼は「あぁ、……」と呟いてから車を発進させ、信号を渡った。私は全身が心臓になったみたいで、頭の奥からバクバクと音がして、膝も震えてしまう。膝の上においた手は勝手に拳の形になってしまって、俯いたら視線をもうあげられなくなってしまった。
でも、……キスはした。
(やった! キスした! 嬉しい!)
単純にそう喜ぶのはきっと下心。
(絶対にやりすぎ! はしたない! 何してんの、ばか!)
そう叫んでいるのは、きっと理性。
(嫌わないでほしい、好かれたい、興味を持ってほしい、もっと、……欲しがってほしい)
そう祈っているのはきっと恋心。
(もうだめ、泣きそう)
そしてそんな心を支えきれなくて、体がパンクしそうだ。泣きたくないのに涙が込み上げてきて、笑うところじゃないのに笑いたくて、でも結局何もできなくて歯が震えてしまう。耳の奥がジンジン痛みだしたとき、――車が止まった。
「みどりさん」
エンジン音が消えて、彼の低い声がよく聞こえる。
「ごめん。俺、酷いこと言ったね」
(そうだ)と私の中で声が響いた。下心も理性も恋心も、みんなそう言った。――そうだ、酷い――私は、怖くてもこんなに頑張ってるのに――冷たい彼の手が頬に触れる。うながされ、ようやく視線をあげられた。
彼はちゃんと私を見ていた。
「君に惹かれてる。だから、俺のことを知ってほしい。これから俺がピアノ弾いてる店に連れていくし、時間があるなら俺のピアノも聞いてほしい。……本当は、今すぐどこかに連れ込んでキスしたい。……だから本気にして。俺も、本気にする」
彼が私に顔を寄せる。
彼の唇が、私の唇に触れ、――る前に逸れ、私の頬に触れた。彼の顔が離れ、手が離れ、彼は左手で顔を隠した。
「ごめん、……、俺、その……今、一杯一杯で……」
彼の顔が真っ赤だった。
私ももう耐えきれず、顔を覆って呻いてしまった。
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