第2話 軽やかに知り合い(4)

「送るだけでごめんね。本当は夕食一緒にとりたいんだけど……」

「いえ、すでに色々していただき過ぎなので。本当にありがとうございます。紫貴さんには助けてもらいっぱなしです」


 紫貴さんは税関で酷い目にあったらしく、出てくるときには心底疲れた顔をしていたけれど、私が待っているのを見た途端にパアっと花咲くみたいに笑ってくれた。

 彼は私のためにアプリでタクシーを呼んでくれ、同乗してホテルまで送ってくれた上に、チェックインも手伝ってくれたし、ベルボーイに荷物を渡すまで私の荷物を運んでくれた。

 そこまでしてくれた上で「でもみどりさんの初ニューヨークの初ディナー……ご一緒したかったな」なんて、私との別れを惜しんでくれるのだ。付き合ってもいないのに彼氏などよりよほど優しい。


(むしろ優しすぎて、怖い。このあと私、全財産むしり取られるのかしら)


 財産と呼べるようなものが私にないことを、紫貴さんはすでに勘づいているはずだ。私は無職で、何も考えずにプレミアムエコノミーをとってしまっただけの小市民。ロマンス詐欺に遭えないぐらいには金がなく、また借金できるほどの社会的な信頼もない。自分で言っていて悲しくなるが、紫貴さんがわざわざ騙すのであれば他にいい女はいくらでもいる。


(この人は絶対にモテるだろうし)


 見知らぬ女を助けてくれるぐらい優しいし、聞き上手だし、外見はタトゥーだらけというのも刺さる人には刺さるだろう。だから、きっと紫貴さんは女に困っていない。もっと言えば、紫貴さんと恋人になりたい人は私以外にたくさんいる。


(だから、『騙されるかも』なんて疑っている余裕はない。何にもないからこそ、私が頑張らないと。貰いっぱなしじゃ駄目よ、市村みどり。覚悟を見せなさい!)


 別れ難そうに、行きたくなさそうに私のマフラーの先をつつく紫貴さんの右手の指、その骨ばった男らしい手を『エイッ』と気合いを入れて、両手で握る。やっぱり冷たい手だった。彼の右手をあたためるように両手で包み、そっと息を吹きかける。


「お仕事、頑張ってください」


 顔が赤くなってる自覚はあった。だけど顔を上げて、彼を見て笑う。

 彼は目を細めて、私を見下ろしていた。嬉しそうというよりは苛立っている顔だ。さすがにやり過ぎだったかなと思っていると「ずるい人」と彼は微笑んだ。


(よかった、このぐらいは嬉しい範囲みたいだ)


 彼の右手を両手で握ったまま「えへへへ」とついついニヤつく。彼はそんな私の顔を「可愛い顔して」と笑ったあと、そっと私の両手から右手を引き抜いた。


「すっごく名残惜しいけど……ハア、なんで仕事入れたかな……あぁ、もう本当に名残惜しいけど、行かないと。みどりさん、明日起きたら連絡して。時差ボケで早朝に起きたとしてもいいから、すぐに」


 彼が私の肩を掴み、彼の胸に引き寄せてくれた。触れているのは肩だけだけど、彼の体温が伝わるぐらいには近い。彼は私の耳に口を寄せた。


「最初のモーニングはもらうから」

「えへへ」


 鼓膜を揺さぶる低い声が嬉しくて、またニヤついてしまった。彼はそんな私の反応に、「ずるいぐらい可愛い」と浮かれたことを言ってから、心底嫌そうにタクシーを呼び、仕事に向かっていった。彼の乗った車が見えなくなるまで見送ってから、ずっと待っていてくれたベルボーイの案内で予約した部屋に向かった。

 シャワーを浴びてから夕飯を食べようと思ったのだが、シャワーが水しか出なかった。慌ててフロントに電話をかけ「Please…… tell me how to put out ……hot water in the shower.(お湯の出し方を……教えてください……)」とやっていたらすっかり遅い時間。少し休もうと布団にくるまったら最後、翌朝の五時になっていた。


『最初のディナーを寝過ごしたので最初のモーニングにして初ニューヨークご飯です……』


 と情けなく、しかし約束した通り起床直後に紫貴さんにメッセージを送る。すぐに既読になり『時差ボケあるあるだよ』と返事をくれた。この時間に起きているということは、きっと紫貴さんも似たような状態なのだろう。


『迎えに行くよ。いい?』 


 一晩寝ても、まだ会いたい。一晩寝ても、まだ、会いたいと思ってくれている。


(……よかった)


 私は深呼吸をしてから、手持ちの中で一番可愛い服とメイクに身を整えた。よく寝たからか、浮かれているからか肌の調子はすこぶるいい。


「人生は一回きり。いつ終わるかわからない。だからこの街で、後悔するぐらいちゃんと恋をしよう。恥ずかしくても、怖くても、浮かれすぎちゃっても、いい。恋なんだから、みっともなくてもいい」


 後悔なんて今更だ。


「今日は絶対にキスをする。やるぞ、市村みどり」


 これがニューヨークでの初めての朝だった。

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