第1話 柔らかに出会い(4)



「……毎日、夕飯食べながらぼんやり見るのにちょうどよくて……」

「なるほど。俺はその『ながら観』が苦手で。作品を観ながらご飯は食べられない。集中しすぎてしまうんだ」

「ア、気持ちはわかります」


 私が二十五歳で、製薬会社を辞めたばかりの無職で、猫派で、映画よりもドラマが好き、最近はイギリスの監獄ドラマにハマっていることが紫貴さんに伝わる頃には、紫貴さんが二十八歳で、ピアニストで、犬派で、好きな映画のジャンルはヒューマン・ドラマと教えてもらっていた。腕時計を見ると、もう一時間以上も話している。彼の話し方も私の話し方も少しだけくだけたものになったし、目を合わせて笑いながら話せている。


(これ、脈アリ? でもこのままじゃ機内で終わっちゃう……)


 私は深呼吸で緊張を誤魔化しつつ、スマホをポケットから取り出す。


「紫貴さん、アノ、……連絡先を交換してくれませんか?」


 ここまで仲良くなったらすぐ教えてくれると思ったが、彼は困った顔をした。その予想外の反応に全身がカッと熱くなる。


(ヤバい、失敗した? 早すぎた? 楽しく話せてた気がするの、勘違いだった? どうしよう! やっぱり別れ際のほうが良かった? 嫌がられた? やだ! どうしよう! 気まずくならないで! 駄目でもまだ話したい!)


 頭の中でパニックになったたくさんの私が叫ぶ。顔まで熱くなってきたし、泣きそうで、鼻の奥まで痛くなる。


(何か言わなきゃ! 何か! 沈黙は駄目! どうしよう! 何か……!)


 口を開くけど言葉が出てこない。どうしよう、どうしよう、どうしようと思っていたら「確認したいんだけど……」と彼が重々しく切り出してきた。


「ナ、ナ、何でしょう……?」


 聞き返す声が震えてしまう。彼を見られなくて視線を下ろしていると、彼のタトゥーだらけの人差し指が、私の持っていたスマホの画面をつついた。


「結婚してないよね? 付き合ってる人もいない?」

「へっ……?」


 想定外の彼の質問に変な声が出た。答えずにいると彼は首をさすりながら「だから……」ともう一度同じことを聞いてきた。


「い、ぃ、いませんっ……全然、そんなのっ……!」

「じゃあ、みどりさんが俺の連絡先聞く『意図』は、少なからず期待していい?」

「き、期待っ……!?」

「現地に住んでるお兄さんと知り合えてラッキー、ぐらいに思ってる?」


 彼は真面目な顔で真面目なトーンで話す。

 そのことにゾワゾワと耳の後ろがくすぐったくなって息がつまる。


(ここで怖気づくな、市村みどり!)


 震える唇を噛みしめてから、口を開く。


「それはっ、あのっ、……つまり、アッ、私も……、キ、……期待して……よいのでしょうか……?」


 声がひっくり返ったけど、なんとか――


(言った……!)


 人生で、こんなに分かりやすく好意を伝えたのは初めてだった。心臓はバクバク動き、全身に冷や汗をかき、手は震える。彼は死にそうな私と目を合わせてから、優しく笑った。


「そうしてくれると、嬉しい」

「アッ……ハイ……」

「ア、ハイって……何、その気のない返事は。俺もパートナーはいないし、その気がない相手に連絡先教えないからね?」


 彼はスマホをポケットから取り出すと、「じゃあ、交換しよ」と笑った。震える手で彼の連絡先を登録しようとしたとき、彼の手も震えているのがわかった。彼の顔をちゃんと見ると耳が赤くなっている。


(していいんだ、期待。……期待したら、嬉しく思ってくれるんだ……)


 じたばたと手足を動かしたい気持ちにかられながら、登録した彼の連絡先を撫でる。『日比谷 紫貴』、字で見ると本当に美しい名前だ。


「ありがとうございます、紫貴さん。あの……、連絡します」


 彼はまた「ウン」と嬉しそうに笑う。彼のその、何もかもを許容してくれるような言い方にホッとした。


(やったー! やった、やった、やった!)


 頭の中でガッツポーズを決めていたら、彼が長く息を吐いた。それから入れ墨だらけの左手で乱暴に二度、自分の顔を拭う。


「紫貴さん?」

「……今、叫びたい気持ちを抑えてるから、待って」

「ア、……私も今、すごいジタバタしたいです」

「そうなの?」


 私達は顔を合わせ、それから笑い合った。


(どうしよう、嬉しい)


 彼も嬉しそうに「こんなの、困るよ」「みどりさんは手慣れてるの」などと言ってくるから、「手慣れてないです!」「紫貴さんの方が優しすぎて、慣れてそう」などと返した。そうこうしている内に機内食が配られ始めたので彼は立ち上がったが、すぐに振り返り「今日はごはん食べたら、もう寝ちゃう?」と聞いてきた。

 その言い方が可愛くて、私は叫ばないために両手で顔をおさえるしかできなかった。

 ごはんの後、彼はまた隣の席に座って話をしてくれた。彼は一度も私の領地を侵略することもなく、一度も私に触れることもなかった。だから、ただただ楽しいだけの時間だった。消灯と共に「ちゃんと寝た方がいいから。おやすみ」と戻ってしまったけど、本当はもっと話したいぐらいだった。


(また、明日も話してくれるかな……)


 彼の外見からくる『ヤバそう』という印象は、彼の話したことですっかり払拭されていた。だから、私は何一つ警戒することなく、すんなりと眠りに落ちてしまった。

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