第1話 柔らかに出会い(3)



 彼はキャビン・アテンダントと視線を交わしてから、私の隣の席に腰掛けた。


(近くで見ても格好いい……)


 彼が困ったように頬を掻いた。


「俺、顔に何かついている?」


 ついじっと見てしまったことに気が付き、慌てて頭を下げる。


「あの……、市村と申します。先程は、重ね重ねありがとうございました」


 まず大事なお礼を言うと、彼は優しい目のまま「ウン」と答えてくれた。それから彼は私に右手を差し出しかけたが、何かに気がついたように右手を膝の上に戻し、口を開く。


「ひびやしき」

「……計算式かなにかでしょうか」

「ウウン、違う」


 彼はセーターの袖を引っ張りながら笑う。


「ひびやは東京の日比谷ひびやと一緒。しきは、むらさき貴重きちょう。それで、紫貴しき。俺の名前……日比谷紫貴。わかった?」


 彼はセーターの袖から小指の爪だけ出して宙に字を書きながら名乗ってくれた後、首を傾げる。


「あなたは?」

「え? あ、普通の字です。市場の市に農村の村」


 彼は袖で隠した右手で口元をおさえて笑った。


「そうじゃなくて……名前は教えてくれないの、市村さん?」

「アッ、失礼しました。みどりです。ひらがなでみどり」

「みどりさん」


 家族以外から名前で呼ばれるのは、五年ぶりだった。慣れていないから違和感は覚えたが、嫌ではなかった。


(この人の声、いいな。馬鹿にされてる感じがしなくて……)


 もし会社の男性に苗字ではなく名前で呼ばれたら、下に見られていると思っただろう。でもこの人の呼び方は敬意があるように感じた。私もそう聞こえればいいなと思いながら「紫貴さん」と呼ぶと、彼は「ウン」と笑った。

 彼は袖で隠した両手を自分の首に当て、私の顔をじっと見ながら口を開く。


「みどりさんは一人旅? 友達に会う、とか?」

「いえ、実は、その、何の予定も立ってなくて……」

「旅慣れしてるんだ」

「いえ、一人旅は初めてです。海外も今までハワイしか行ったことないですし、それももう五年前で……今回なんて仕事も辞めて来てしまったのに何も考えてなくて……無計画というか……」


 私の回答が進むに連れ、彼は不審そうに眉をひそめた。


「不安そうだけど、本当は来たくなかった?」

「いえ、そういうわけじゃないです。でも、勢いだけで来ちゃって……ドルも持ってないし、あはは……本当……」


 話している内に自分でも『どうするんだ』という思いが込み上げてきて、ヘラヘラと笑ってしまう。恥ずかしいときについしてしまう癖だ。『私、馬鹿ですよね』と先に自分で笑っておいて、『馬鹿だね』と笑われても傷つかないようにする悪癖。でも笑われたら結局傷つくのだ。


(笑わないでほしいな……)


 心臓が嫌な軋み方をする。視線を下げると彼の指が見えた。セーターの袖を引き伸ばす彼の親指の爪は真っ白で、少し震えている。


「来たかったんだね、よかった」


 聞こえたのは安堵のため息。見上げると、彼は嬉しそうに微笑んでいた。


「どのぐらいいる予定なの?」

「ア、それもまだ決めてないですね……」

「フフフ、いいなあ、そういうの」


 彼の笑顔に心がほっとした。


「俺は十年前からアメリカに住んでる。ニューヨークは今年で三年目」

「すごい、ニューヨーカーですね」

「アハ、そうね、ニューヨーカー」


 彼は口元に手を当てたまま、息を吐くように笑う。


(十年もアメリカ暮らし。私とは全然違う生き方だ)


 私の常識は彼には通じないだろう、いちいち驚くのも失礼だろうから気をつけよう、と心に留めつつ、『もっと知りたい!』と騒ぐ恋心に従って口を開く。


「お仕事は何をされてるんです?」

「何だと思う?」


 楽しそうに笑いながら質問を返された。


(見た目は彫師かヤクザだけど……でも、そんな風にはとても思えないし……)


 私は唇を舐めてから「中学の先生とか?」と返してみた。彼は意外だったのか目を丸くする。


「どうしてそんな風に思ったの」

「声が聞き取りやすくて話し方が丁寧なので、……あと、先生が『ああいうとき』に助けてくれたらいいなあって。当たりですか?」


 彼は私から目を逸らすと両手を首から離した。


「『こんな』先生、怖すぎでしょ」


 自嘲気味に呟く彼の首に髑髏と薔薇のタトゥー。


(やっぱりタトゥー隠そうとしてくれてたんだ。私が慣れてないから……)


 隠しきれていないから意味はなかったけど、その気遣いが嬉しかった。


「正直に言うとタトゥーは見慣れないです。だけど怖くはないですよ。隠してくれなくて大丈夫です」

「……そう、よかった。ありがとね」


 彼は頬を赤く染めて、照れ笑いを見せてくれた。あんまりにも可愛いから、私も目を伏せてしまう。もっと見たいけど、見てると照れてしまう。それでも見たくて、また視線を上げてしまう。そしたら目が合ってまた照れてしまう。


(そうだ、……こういうのが恋だった)


 彼はセーターの袖を直して、指を見せてきた。男性らしい骨ばった指。どの指にも無秩序にタトゥーが入っているが、彼は右手の人差し指に描かれた筆記体の『PIANO』のタトゥーを指し示し「ピアニスト」と答えをくれた。


「ピアニスト!」

「何、その反応」

「ピアニストって初めて見ました、いるんですね」

「そりゃいるよ。パンダみたいな扱いやめて」


 彼は楽しそうに笑う。『クスクス』、そんな表記が似合うような品の良い笑い方だった。


(ニューヨーカーでピアニストって、映画みたい)


 もっと彼のことが知りたくなって、「趣味は何ですか」と私は新しい質問をした。

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