第1話 柔らかに出会い(2)

(いや、どうするの、この先)


 首にクッションを当て、毛布を膝にかけ、腕を組み、ため息をつく。


(なーんでプレミアムエコノミーにしたかなー? 何も考えてないにもほどがあったよねー! アー、しかし席がひろーい! ありがたーい! 私の五十万円様パワー! やはりマネー! マネー・イズ・パワー!)


 傍から見たらきっと私は真顔だが、頭の中ではノリツッコミが止まらない。だって、冷静になってみると、現状は『ヤバすぎる』。


 衝動のままに直近の航空券を取り、航空会社に指摘されてESTA(ビザ免除プログラム)を申請し、目についたものをトランクに詰め、ここ機内にいる『現状』。そもそも貯金は三百万円しかなかったのに離職した挙句、この航空券、片道のみで五十万である。つまり離職後、初手で貯金の六分の一を航空券に溶かしたという『現状』に冷静になって直面したのが、今。つまり飛行機の中なのだ。もはや退路はどこにもない。


(我ながら衝動が過ぎるでしょ。五十万はヤバい。ホテルの予約をしてないのもヤバい、一人旅初めてなのに海外なのもヤバい。英語話せないのもヤバすぎ、どうするの、本当に……)


 もう一度ため息をつき、腕を組み直す。


(着いたら速攻でホテルの予約。あと帰りの航空券をエコノミーで買う。それから……『また』か)


 着陸後の算段を必死に考えていると、足に違和感。確認すると、『また』隣の席に座っているおじさんの足が私の足にぶつかっていた。


(さっきからなんなんだ、このおじさん)


 プレミアムエコノミーはプレミアムな値段なだけあって席は広い。なのにこのおじさん、わざわざ足を広げ、こちらの領地を侵略しているのである。通路に足を出さないくせに、こちらは小娘だからいいと思っているのか、窓側席の、つまり『私の』領地を侵しているのだ。

 しかし小娘とはいえ(小娘でもないが)、こちらは虎の子の五十万円を出したのだ。こんなところで譲る訳にはいかない。だから頑として足を動かさずにいるのだが、さっきからコツンコツンと何度も、『何度も』!


(世が世なら打首にするぞ!)


 睨んでもおじさんはシレっとしている。『逆らえるはずがない』と言わんばかりの態度だ。プレミアムな席を取るだけあっておじさんは金がありそうな三十代に見える。出会ったところが合コンであれば心惹かれるかもしれない程度のエリートイケメンだ。しかしここは合コンじゃなくて離陸前の機内で、しかも私はすでに貯金の六分の一を溶かしている。この状況では相手がハリウッドスターだったとしても、心惹かれる余裕などありはしない。

 全力で睨みつけると、おじさんはようやく足を引っ込めた。


(さっきからこの繰り返し……)


 離陸前からこの調子で、この後十三時間のフライトだ。想像するだけで苛々する。しかし、やられていることは足をぶつけられるだけ。怒ったらこっちが『ヒステリー』にされるだろう。私はもう一度ため息をつき、窓に視線を移す。飛行機は滑走路に向かって動き出していた。このままなら定刻通り、向こうに着くのは夕方の六時過ぎになるはずだ。


(つまり『ニューヨークでディナー』になるのね。ホテル予約するときにディナーの予約もできるか聞いてみないと……)


 着陸後のタスクの優先順位を整理していたら、キャビン・アテンダントがやってきた。領地侵略おじさんの向こう側、中央列の席の人が彼女に何かを話しているようだ。水でも頼んだのだろう。

(私も頼もうかな、お水……飛行機ってなんでこんなに乾燥するのかしら……)

 私の考えが伝わったのか、キャビン・アテンダントが振り返った。彼女は腰を折ると、私が水を頼む前に口を開く。


「お客様、お席のご移動をお願い致します」

「は?」


 彼女が声をかけたのは領地侵略おじさんだった。おじさんは困惑した声を上げたが、すぐに男性のキャビン・アテンダントが三人もやってきて、あれよあれよという間におじさんを何処かに連れて行った。その後、おじさんに移動を願ったキャビン・アテンダントが小走りで戻ってきて、対応が遅くなった旨を詫びてきた。困惑しつつ、ひとまず彼女にお水を頼むと、彼女はにこやかな笑顔でお水をくれた。

 状況を理解できないまま、空いた隣の席を見る。


(対応って……?)


 ふと、隣の席の向こう、中央列の青年と目が合った。


(ひえっ⁉ 何!)


 銀色に染められた短髪、全身黒のコーディネート、まるでロックバンドのボーカルだ。ぱっと見るとイケメンだが、そんなことよりも彼の黒いセーターからのぞく首には髑髏とバラのタトゥー。指や足首にも所狭しとタトゥーが踊っていた。思わず息を呑んでしまうぐらい恐ろしい外見をしている彼は、こちら側の肘置きに両肘をおき、私をじっと見ている。目が合ってしまった私が視線を泳がせていると、彼が口を開いた。



「ああ言うのはね、助けを求めていいんだよ」



 真っ白な前歯、耳に残る男らしい低い声。



「特に長距離移動はね、隣がやばいときついから。折角いい席なんだから、楽しんで」



 彼はニコリと笑うとこちらを向くのをやめて、背もたれにもたれ、目を閉じた。そんな彼の横顔のラインをたっぷり十秒見た後、私も背もたれにもたれ、水を飲み、息を吐きだす。


(……え、つまり、彼が助けてくれたってこと? おっさんの侵略に気がついて、キャビン・アテンダントさんを呼んでくれた……ってこと?)


 そう気がついて慌てて身体を起こしたが、彼はすでに目を閉じて深く息をしていた。


(完全にお礼を言うタイミングを逃した! どうしよう、起きたタイミングで言う? でも……)


 ――いつ何があるかわからないのが人生。


 私は水をもう一口飲み、深く息を吸う。


「助けてくれて、ありがとうございました」


 彼はゆっくりと目を開けると、こちらを向いて微笑んだ。


「ウン」


 彼はまた目を閉じた。

 そのまま美術館に陳列されてもいいぐらい、美しい横顔だ。鼻の形がとても綺麗。Eラインが完璧で、眉は整えられている。髭の痕跡すらない潤った肌。年齢は私と同じぐらいだろうか。彼の周りだけキラキラしていて、見ていると全身が粟立つ。


(……どうしよう)


 社会人になってからとんとなかった『この感じ』。いや、もっと正確に言うと、『大学二年のときに浮気されて彼氏と別れてから』、とんとなかった。要するに――。


(これ、『恋』だ)


 離陸間際の飛行機で、ポン、と、すっかり忘れていたものが出てきてしまった。


(ちゃんと顔が見たい、もう一度声が聴きたい、もっと……)


 溶けた脳みそによる欲まみれの思考のままに、彼の横顔を盗み見た。

 彼の首に『鯨』が見える。細かい線で描かれたそれタトゥーは、絵画みたいだ。『それ』一つだけだったら『きれいなタトゥーだなあ』と思えなくもないが、彼の場合、の横には羅針盤・・・が見えるし、先ほど正面から見たときは髑髏・・薔薇・・も見えた。セーターからのぞいている指に至るまで、無数のタトゥーが所狭しと彫り込まれている。


(そうね。こんなにタトゥー入れてる人、絶対ヤバい)


 日本だったら、足が浮くほどの満員電車であっても、彼の隣の席は空いているだろう。そのぐらい『すごい』外見をしている。正直今まで関わってこなかったタイプだし、今後の人生でだって関わらないほうが良いだろう。だって全身タトゥーだし、銀髪だし、イケメンだし……。


(見たらわかる。これは落ちたらヤバい人。女殴って金取った挙句、泣きながら謝ってきそうだもん。ここで『いい人だったなあ』で忘れるべき人。そうでしょう、市村みどり!)


 落ち着こうと窓を見ると、機内アナウンスが離陸することを告げた。


(今ならいい思い出として……)


 飛行機が滑走路を走り始めた。揺れる車窓に映る自分の顔。


(……あー! もう! なんですっぴんかな!)


 そりゃ十三時間フライトだからだ。肌への負担を考えてたからだ。だけど、今は、それが悔やまれる。


(だって『この人』に見られるなら可愛い顔がいいもん)


 飛行機が離陸する。顔をおさえると熱くなっていた。だからもう、これは間違いなく恋だった。


(恋なら『次こそ』足踏みはしない。そう決めていたでしょ、市村みどり)


 機体が安定し、シートベルトサインが消えたのを確認してから、私は彼を見た。

 彼は目を開けていた。そして私の視線に気がついたのかこちらを見て『どうかしたの?』と目で問いかけてくれる。首には髑髏と薔薇。でも、顔はとびきり可愛い。


(ええい、うだうだしない! 覚悟を決めろ!)


 私は息を吸った。


「あの、……すぐ寝ちゃいますか?」

「いや? 特に決めてないよ。眠くなったら寝るつもりけど……」

「だったら、その、少し、お話とか、……しません?」

 彼はまばたきをした後、「ウン」と頷いてくれた。

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