第6話 昼食

 孝雄はキッチンから一番離れた席に座った。


「健一、久しぶりだから、あなたはお父さんの隣に座りなさい」と優香は言った。


 健一は孝雄の隣に、弘樹はその向かいに座った。優香はカルボナーラを盛りつけた四人分の皿をそれぞれの前に並べ、弘樹の左隣に座った。


 健一は「おいしい、おいしい」と言いながら、大盛りのパスタをあっという間に平らげた。「ごちそうさま、ぼくはゲームをしてくるよ」と言って席を立った。


 健一の早食いはいつものことだが、弘樹は険悪な雰囲気の夫婦の間に残されて少し戸惑った。しかも、皿にはいつもより多く盛りつけられている。食の細い弘樹には到底食べきれる分量ではない。


「弘樹、来いよ」と健一が誘った。


「弘樹君はまだ食べてるでしょ。一人で遊んでなさい」と優香が言うと、健一は隣のリビングルームに姿を消した。すぐにゲーム機の音声が室内に響いた。


「あなた、ドアを閉めてくださらない?」と優香。


 孝雄がリビングルームとダイニングルームの仕切りのドアを閉めると静かになった。優香はテーブルの下で弘樹の左手首を握った。


「それで、あちらの家はあなたがいなくても大丈夫なの?」と優香。


「メイドがいるから問題ないよ」と孝雄。


「そのメイドは元気なのかしら?」と優香。


「二人目の子供が生まれそうだ」と孝雄。


「そう。よかったわね。それであなた、ここへは何しに来たの?」と優香。


「待ってくれ、ちゃんと説明する」と孝雄。「そのために帰ってきたんだ。だが……。」


「何かしら?」と優香は言った。


「弘樹君がまだ食べ終わってないじゃないか」と孝雄。


「かまわないわ」と優香は冷たい目を孝雄に向けた。弘樹は普段の優香とは別人のように感じた。「説明して。」


「わかった。先月のことは謝る。突然来るとは思っていなかったんだ」と孝雄。


「健一のことで、どうしても直接会って相談したかったのよ。電話では埒が明かなかったから。それに、あらかじめ私が行くと伝えたら、あなたはスケジュールを調整するとか言って先延ばしにするでしょ」と優香。


「お前が来るときは、ちゃんと準備をして迎えるつもりだったんだよ」と孝雄。


「玄関で追い返されると思わなかったわ」と優香。


「すまん。メイドにお前のことをまだ説明していなかったんだ」と孝雄。


「彼女はあなたの妻だと言ってたわよ。子供もいるって、赤ん坊を見せられたわ」と優香。


「慣例なんだ」と孝雄。「駐在員は現地でメイドを雇うとき、結婚の手続きをするんだよ。ただし、婚姻届と離婚届の両方を作っておいて、帰国する時に離婚するんだ。」


「そんなことを私に説明する気だったの?」と優香。


「そうじゃない。日本から妻が来るときには、現地妻はメイドのふりをして、子供は妻の親族に預けるんだ」と孝雄。


「その準備ができなかったから申し訳ないと?」と優香。


「そうだ。本当に申し訳ない」と孝雄は頭を下げた。


「私がそれで納得すると思っているの?」と優香。


「駐在員の仕事は過酷だから、その分手当てがつく」と孝雄。「それに、給料に含まれない収入も結構あるんだ。だから、君への仕送りを増やすことができる。」


「お金で解決したいのかしら?」と優香。


「そういうことじゃなくて、オレの立場も考えてほしいっていうことだよ」と孝雄。「それがお前のためにもなるんだよ。」


「あちらの子供はどうなるの?」と優香。


「もちろん、現地で育てさせるよ」と孝雄。「日本には絶対に連れてこない。約束する。」


「そんな約束いらないわ」と優香。「子供は男なの?女なの?」


「女の子だ。お腹の子供も女の子のはずだ」と孝雄。


「健一には会わせないの?腹違いの妹よ」と優香。


「いずれ、健一が社会のことを理解できる歳になったら話すつもりだ。だが、今は知らせない」と孝雄。


「家族に自分の都合の悪いことを隠すのが、あなたのやり方なのね」と優香。


「必要な嘘があるんだよ」と孝雄。「すべてを教えることが子供にとっていいわけじゃないんだ。」


「そうやって、自分は立派な社会人のふりをするのね」と優香。


「社会的な立場とか、世間体だとかも守らなきゃならないんだ」と孝雄。「お前だってわかるだろ。旧家のお嬢様じゃないか。」


「わたしは体裁ばかり気にする人が嫌いなの。他の人からどう思われるかなんて、どうでもいいのよ」と優香。


「だが、オレは困るんだよ」と孝雄。


「あなたのことが嫌いだわ」と優香。「もう、帰ってこなくていいわよ。」


「ここはオレの家だろ?」と孝雄。


「なら私が出ていくわ」と優香。


「待てよ。離婚する気なのか?」と孝雄。


「仕方がないでしょ」と優香。


「待ってくれ。離婚だけはやめてくれ」と孝雄。「オレが会社で強い立場でいられるのは、お前のお父さんの後ろ盾のおかげなんだよ。」


「あなたの都合で夫婦を続けるなんて嫌よ」と優香は不快そうな顔をした。


「わかった。このまま離婚しないでいてくれたら、お前の言うことを何でも聞く」と孝雄。


「何でもですって?」と優香。「よほど会社員の身分と愛人との生活が大切なのね。」


「何とでも言ってくれ」と孝雄。「オレが個人でできる約束なら何でも聞く。だから頼む。」


「本当なの?」と優香。「その場しのぎの口約束だったら許さないわ。」


「弘樹君には気の毒だが、証人になってもらう。弁護士に来てもらってもいい」と孝雄。「だからお前の気の済むような条件を言ってくれ。」


「いくつでもいいの?」と優香。


「もちろんだ。好きなだけ言って構わない。飲める条件はすべて飲む」と孝雄。


「そう。わかったわ」と優香。「まず、この家は私がもらうわ。あなたは夫婦のお芝居に必要な時だけ、ここに来てもいいことにする。それから、あなたの資産の半分を私の名義にして。もちろん、今まで通り健一と私の生活費を毎月いただくわ。」


「わかった」と孝雄。「他は?」


「あなたとはもう他人よ。私は愛人を作るわ」と優香。


「いいだろう」と孝雄。「それから?」


「愛人の子供を産むわ」と優香。「そして、戸籍上はあなたとの間の子供として育てる。その子の養育費ももらうわ。」


「オレも現地妻との間に子供がいるからお互い様ということか」と孝雄。


「そうね。仕方がないでしょ。離婚できないのだから」と優香。


「わかった。すべての条件を飲むよ」と孝雄。「だが、健一の前では夫婦のままでいてくれないか。頼む。」


「かまわないわ」と優香。「だけど、いずれ仮面夫婦だってばれるわよ。」


「そのときは仕方がない」と孝雄。「オレが責任をもって説明する。」


「健一は今のまま、あなたに放っておかれるのね」と優香。


「ここにいる間はちゃんと相手をする」と孝雄。


「頼んだわよ」と優香。

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