酔いどれ:後

「リャンの母親は私の──恩人でね」

 胡麻菓子を頬張るリャンと杯を傾ける美煌ミーファンを前にチェンは語る。秘めた思いも言葉にすれば、存外あっさりしたものだった。

 恩人。確かに彼女は恩人だった。幼いチェンを子供として扱ってくれたのは、あの人だけだ。

 

 チェンの実母は女人にょにん街の娼婦だ。母はチェンを産み捨て男とどこかに逃げたらしい。

 娼館に捨てられた娼婦の子だ。ロクな扱いはされない。姐さんたちはチェンがぶっ倒れるまで雑用係としてこき使ったし、客になぶられ気絶することもままあった。

 

 生傷の絶えない娼婦の子を唯一労わってくれたのが、かつら屋の姉さんだ。

 初めて傷の手当てをされた時は警戒したが、二回目に傷の手当てをされた時はぐしゃぐしゃに泣いた。姉さんに会うまで、人が優しいことを知らなかった。

 当時を思い出すと傷跡を柔く引っ掻かれたような気分になる。

 人が情をもつ生き物ならば、あの人はチェンにとって初めての『人』で、あの人のおかげでチェンは『人』めいたのだと思う。

 

 そんな胸底の宝物のような人との再会は明るいものではなかった。

 久方ぶりに会った優しい人は、臨月間近の腹を抱え、あてどなく彷徨う屍となっていた。

 

「恩のある女性が腹を膨らませた屍物かばねものになって目の前に居る。あんたならどうする?」

 美煌ミーファンを見やる。功夫クンフー使いは目をしばたたかせた後、チェンから目を逸らした。

 

「私も信じたくなかったよ。自分の目がおかしくなったと思いたかった」

 頭の中を真っ白にしつつも、当時のチェンは動いていた。彼女を自宅にかくまったのだ。

 屍に情けをかけたところで何も変わらない。死者は決して生き返らない。だが彼女がチェンの知らない所で、知らない誰かにバラバラにされることだけは絶対に避けたかった。

 

屍物かばねものになったあの人を借家に匿ってさ。どうすれば彼女がに終われるのか──そんな阿保なことを、ずっと考えていた」

 当時のチェンは二十歳はたち前の小僧で店も構えていなかった。拾い集めたガラクタや小物のキ物を露店で商って食い繋いでいたように思う。

 店を出している時は、彼女のことが近所にバレないか心配だった。家に帰ると優しい姉さんが屍物かばねものになった事実に打ちのめされた。

 屍物かばねものは死臭を放ち歪に動くだけ。屍のあの人との生活は、チェンの心をさいなんだ。

 

 彼女をこの手で砕いて、自分も終わってしまおうか──。思い詰めながら普段より遅く帰った夜。

 あの人は動かなくなっていた。動く屍からただの屍に戻っていたのだ。

 床にくずおれた彼女の腹はしぼんでおり、脚の間では血塗れの赤子が弱々しく泣いていた。子を産み落として果てる──その終わり方は、死肉を崩され人の形を失って果てるより、ずっとに思えた。

 

 こんなにも弱々しい子が、あの人をすくったのか──ぼんやり思いながらチェンは的確に動いていた。大量の布を用意し、ありったけの鍋を使って湯を沸かした。あぶったはさみで臍の緒を処理し、赤ん坊を産湯につけた。

 湯につかり清潔な布に包まれた赤子はやがて泣き止み静かになる。不安に思って鼻先に耳を近づけると、小さな寝息が耳をくすぐった。

 

──ちゃんと、生きている──

 込み上げる何かに、ぼろぼろ涙がこぼれたことを覚えている。

 あの人を荼毘だびに付した後、粉ミルクと哺乳瓶を買い、走って家に帰ったことも覚えている。

 

「どういう理屈かはわからないけれど──かくまってしばらくして、あの人はリャンを産んで、ただの屍に戻った」

 選品店セレクトショップの窓から我鳴ガーミンの薄明るい夜を眺め、チェンは昔日をしのぶ。この店を持てたのはリャンが七つを過ぎた頃だったか。

 

「動かない屍なら普通に弔える。彼女を弔った後、産まれたばかりのリャンにミルクをやって、おしめを換えて──」

 幸か不幸か、リャンは赤子らしからぬ赤子だった。腹が減った時とおしめが汚れた時にだけ、それを知らせるように泣く。あとは寝ているか、じっと虚空を見つめていた。

 おかげでチェンは『乳児を育てる』という難関を突破でき──

 

「で、今に至るってわけ」

「三十点」

 チェンの昔語りを美煌ミーファンがすぱりと採点する。他人の過去に点数を付けるな。

 

「恩人が妊娠したまま亡くなった挙句、屍物かばねものになるって都合良すぎません?」

 論評にも閉口する。事実に説得力がないとか言われても困る。

 

「あと、店長の恩義ある女性への気持ちが重いというか。普通に恋慕してたのでは?」

 その辺りは突かれたくなかったし、思っていても口にしないで欲しかった。他人の思い出に陳腐なラベルを貼らないで欲しい。

 人言を喋る分、この猛獣タチが悪い!──無の笑みを浮かべ、チェンは天井の角を見つめる。針と糸が欲しい。良く動く可憐な口を縫い合わせて差し上げたい。

 

「三十点ですが、な話でもありました」

 杯の淵を指先でなそりながら美煌ミーファンがこぼす。

「赤子の屍を崩すより、ずっと、ずっと、です」

 功夫クンフー使いの遠い呟きで、チェンは察する。

 おそらく彼女は言葉通り、赤子の屍物かばねものを壊してきたのだろう。それで憂鬱になって愚痴をこぼす相手と酒を求めて選品店セレクトショップにやってきたのだ。


──この猛獣、存外だ!──

 チェンは美煌ミーファンへの評価を少し改める。ただ、当たり前の感性をしているのなら、普段の行いでそれをしめせ。

 色々喉から出かかっているチェンの前で、功夫クンフー使いは紹興酒しょうこうしゅを飲み干す。彼女は席を立つと懐から札束を取り出し、卓に置いた。

 

「つまみ程度の話は聞けたので。こちら、今日の呑み代です」

 額は申し分ないのだが、頬を引っ叩いてきた札束を寄越されチェンは微妙な気分になる。

 

「何かあったら、またお酒を飲ませてください。お代は払いますから」

 告げて、功夫クンフー使いは店を後にした。


 チェンは頭を抱える。猛獣に変な方向で目を付けられた。閉店後の店に押しかけられるのはまっぴらだし、そもそもこの店は酒屋ではない。

 閉店後は店先にトラバサミを置いておこう!──真顔で考え、酒瓶と杯と茶器を片付ける。卓を拭いていると、リャンが側に寄ってきた。

 養い子は、周囲をぐるぐる回りながらチェンの様子を伺っている。

 

「どうしたんだい?」

 実母のことを聞かされて思うところがあったのだろうか? それとも、部外者にまで色々話されて嫌だったのだろうか?

 考えを巡らせていると、リャンが飛びついてきた。小さな額に鳩尾みぞおちえぐられ、潰された蛙のような呻きがもれる。

 リャンは細い腕でチェンを抱きしめ、額をすり寄せた。常とは異なる養い子にチェンは戸惑う。

 

「さっき出した胡麻菓子に変なものでも入っていた?」

「違うよ。ええと──俺──」

 少年はぎゅうとチェンを抱きしめ、必死に言葉を探している。

 

「うれ、しい──。うん、俺、嬉しいんだ」

 リャンはつぶらな瞳でチェンを見上げる。ぼうっとしてばかりの瞳はきらきら輝いていた。

 

「父さんと母さんが知り合いだったことが嬉しい。父さんと母さんがお互いを大事にしていたことも嬉しい」

 表情に乏しい顔は珍しくゆるみ、年相応のあどけなさをかもす。

 

「知り合った男女が互いを大事にすると子が出来るんでしょ? 父さんと俺が本当の親子みたいに思えて、胸の辺りがふわふわする」

 チェンは目を丸くする。リャンの突飛な考えは年相応に幼い。だが、胸がじわりと暖かくなったのも確かだ。

 チェンとリャンに血の繋がりは無い。二人は本当の家族では無い。だがリャンがあの人の子で、あの人の子をチェンがはぐくみ、その子が健やかに育っている──それは事実だ。

 

「そんなに喜んでくれるのなら、もっと早くに話せば良かったね」

 目を細め、我が子の髪を撫でる。細い髪は少し傷んでパサついていた。リャンはチェンと違って髪の手入れなどをしないから、質の悪い石鹸を使うと分かりやすく髪が傷む。

 これからはもっと良い石鹸を買おう──チェンは思う。

 

「俺、もっと『良いもの』なるよう頑張るから」

 自身を『物』と認識する子供は言う。

「だから父さんも、もっとたくさん俺を使ってね」

 その言葉は子供の無邪気な好意から出たもので、養父の役に立ちたいという表明に過ぎないのだろう。

 だが、幼い頃ちりのように扱われたチェンは、なんとも言えない気分になった。

 嬉しげに物の手入れをするリャンに「お前は『物の子』だね」と冗談まじりに告げた自分を殴りたい。

 

「お前は『人というもの』なんだよ──」

 リャンの首筋に顔を埋め、さとす。

 薄い肌は暖かく、その奥では熱い血が脈打っている。出生と自認がどうあれ、この子は生きた人間だ。

 

「──だから、お前が『良い人』になってくれたらなら、嬉しいな」

 祈るようにチェンは呟く。

 だが、金にうるさく世間擦れずれした父を見て育ったリャンは、その真意に気づかない。

「それは、金ヅルになれってこと? それとも、都合の良い人間になれってこと?」

「そういう意味ではなくて……」

 脱力しつつも我が身を振り返り、チェンは色々反省した。

 

──せめてこの子が在りたいように在れるよう、努めよう──

 親を知らないチェンは胸底に静かに刻む。難題であろう決意は、穏やかに心を満たした。

 

 

◼︎──────

 

 

 翌日から閉店後の選品店セレクトショップ店先にトラバサミが設置される。だが、罪のない通行人がひっかかり苦情が殺到したため、数日でトラバサミを撤去する羽目になった。

 せっかく買ったし、なんとなく店の壁にトラバサミを吊るしているが、こいつがキ物になったらヤバいなぁとチェンはうっすら思っている。

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