6. アドルフィーナとお兄様
ゲルハルトの身に異変が起こったその日、アドルフィーナはクラウスにもう一度時間を取ってもらった。予想していたのだろうクラウスの落ち着きようはアドルフィーナが竦んでしまうほど不気味だったが、前の日と同じく執務室でクラウスはゆったりと椅子に腰掛け、アドルフィーナに鷹揚に構えるよう言い聞かせた。
昨日と同じようにカウチソファに掛けると、温かい紅茶とちょっとした甘味がローテーブルへ置かれる。
まるでアドルフィーナの心を宥めるようだと感じつつも、彼女は紅茶に砂糖を入れると口をつけた。ほんのりと果実の香りが鼻孔をくすぐり、アドルフィーナの喉を潤していく。ティーカップの温かさを感じながら、アドルフィーナは唇を開いた。
「お兄様、このロケットは……我が家の家宝ですね。つまり、そう言う力をもった魔道具」
「察しの通りだ。まあ、どちらかと言えば呪具に近いな」
「お兄様はそれを承知の上で、わたくしに……願い、誓えと」
そういえば兄は怒っていた、とアドルフィーナは振り返った。流石に抗議の手紙を送るか、あちらの嫡男と内々で話をするか程度だろうと考えていたアドルフィーナは肩を落とした。
「そう落ち込むな。それを使うには我が家の血筋と、特定の条件が必要だ。そして強大な力があるわけでもない」
「……人一人の身体を作り替えることが、強大な力ではないと?」
「たった一人、だからな」
クラウスは強調すると、おもむろに足を組み替えた。なんでも無い所作さえ美しく見えるのは教育の賜物だ。
「詳しくは言わないが、とにかくこの国で古くからある家にはそう言うものを代々管理する義務がある。殆どの場合で嫡男くらいしか知らされないが、だからといって特別隠しているわけでもない。お前も目を通した書籍の中に、歴史上性別が突然変わった人間の話を見かけたことくらいあるだろう。
我が家はそうだが、ヘーフェヴァイツェン家もそうだ。普通、裁判を担うものは一代限りの男爵位を持ち、法服貴族として名を連ねる。しかしヘーフェヴァイツェンは違う。あの家が領地を持ち、古くからの帯剣貴族でありながら新興の法服貴族の殆どを束ねる絶対的な存在なのは、裁判において欠かせない能力を継承するからだ」
「……」
「彼らは偽証を見抜く力があるという」
その話が今も尚実際に存在する力を語っていると、アドルフィーナは考えていなかった。寝物語と同じで、時には子どもを躾けるときに語られるような類いの内容だと思っていた。
「わたくしが、……それを知って良いのですか」
「良いと思ったから話しているし、ロケットも持たせた。我が家のそれは条件について明かしたわけではないし、ヘーフェヴァイツェン家のそれは、裁判の場や神聖な宣誓の場でのみ力を発揮し、また力を持った者が恣意的に運用すると失われることが分かっている。第三者どころか、当人にもコントロールできるものではない。
まあ、かと言ってみだりに広める話では無いことは確かだな」
淡々と話すクラウスに対し、アドルフィーナはロケットよりも重い内容の連発にティーカップを持つ手が震えるのを感じた。平静でないことを認め、テーブルの上のソーサーへ戻す。
「話は既についている。先方も多少お灸を据える程度ならばこちらに任せてくださるそうだ。無論、ゲルハルト殿の生活を支える準備もできている」
「それはお兄様のことでしょう。わたくしは……初めて知りました」
「だが、お前がやることは変わらない。昨日願ったものを信じて、貫き通せ。それで上手くいく」
「……納得も理解もできておりませんが、承知しました」
アドルフィーナにとってクラウスは理不尽を強いてくる存在ではない。決してアドルフィーナにとって悪いようにはならないことを確信しての発言だろうことは嫌と言うほどに理解している。両家の仲が悪くなるような抗議はできない。様々な縛りがあるなかで、必要だと思ったからクラウスはそうしただけなのだろう。
それでも、ゲルハルトの心細そうな姿を考えると、やり過ぎではないのかと思わずにはいられなかった。これが嫡子とそうでない子どもとの差とでもいうのだろうか。
「なにか手落ちがあれば私が責任を取る。アドルフィーナ、お前に教えられることはもうない」
「……かしこまりました」
話は終わったと言われ、アドルフィーナは礼をとり執務室から下がった。
確かに両家の当主を巻き込んだ話し合いは大事過ぎると考えていた。ヘーフェヴァイツェン家は領地で災害が起こったため当主は忙殺されているだろう。
しかしこの事態も決して簡易なものではない。
ゲルハルトの美貌を思い、アドルフィーナは自室のドアが閉まると同時、小さく息をついた。
ゲルハルトが美女になり一ヶ月が過ぎると、アドルフィーナとゲルハルトの関係はそれまでとはすっかり変わっていた。常に側にいて価値観や知識のすり合わせをしているからか、はたまた気が滅入り落ち込んだ所をしっかりサポートしたからか、ゲルハルトの態度は目に見えて軟化した。それも傲慢な方向ではなく、極めて謙虚でストイックな方向へだ。
アドルフィーナを見遣る際のゲルハルトの瞳も、以前の冷え冷えとした色ではなく、深い青色か紫が混じったような、暖かさの感じるものになっていた。ゲルハルトの身長が小さくなったため、アドルフィーナにはその瞳がより近く感じられ、形容しがたい感覚を覚えた。
アドルフィーナの胸はぽかぽかと温かくなり、クラウスによってぶら下げられた重りが軽くなる心地だった。
その頃になるとアドルフィーナもクラウスが『上手くいく』と言った意味を感覚的にも許容し始めていた。この事態が当事者二人のため、そしてこの婚約そのもののために必要なことで、突飛な出来事だったにもかかわらずヘーフェヴァイツェン家の人間さえ受け入れて静観しているのは、ユスティーツブルク家の魔道具の存在をあちらも知っているか、明かされているからなのだろう。
ゲルハルトはどう考えているか分からないが、見守られているのだとアドルフィーナは思っていた。クラウスがゲルハルトを家に呼び、制裁を下すまでは。
******
ルシャードに掴まれた腕の痛みが癒える頃、正式な手段で招かれたゲルハルトはユスティーツブルク家のタウンハウスを訪れ、応接間へ通された。制服で構わないと予め伝えられていたため、普段よりも少しばかり身だしなみに気をつけつつ、豪奢なソファへ掛ける。柔らかいソファはゲルハルトの身体を包み、凭れることこそできないものの、その質の良さはユスティーツブルク家の格の高さを知らしめるには充分だった。
婚約者の家ではあるが、用もなくアドルフィーナを訪ねることはおろか、殆ど近寄らなかった邸にゲルハルトは品を損なわない程度に周囲を見渡した。
王家とも繋がりのある侯爵家の応接間とあって、花の一輪でさえ華やかで、古ぼけて見えるものがない。見せびらかすような高級品は置かれていないが、質の良い調度品が場を支配していた。
「ゲルハルト殿、呼びつけておきながら遅れて済まない」
「! クラウス卿。本日はお呼びいただき誠に光栄です。私はまだ学生の身ですし、ご多忙な卿のお時間を賜れるのは栄誉なことだと考えます」
使用人の言葉掛けの後入室したクラウスに、ゲルハルトは即座に立ち上がり、礼をとった。
「そう言っていただけると心が軽くなるな。そのまま座って、楽にしてくれて構わない」
「ありがとうございます」
指示通り再びソファに掛け、ゲルハルトはクラウスが扉を少し開けておくよう指示しているのを聞いた。
紳士ならば当然の振る舞いが高潔なもののように見えるのは、クラウス自身が持つ威光だろう。ゲルハルトは年の差があるとは言え、この男のようになりたいものだと思わせるには充分だった。
クラウスは使用人が一礼して退室するのを確認すると、ゲルハルトの対面のソファへ座った。
「早速本題に入ろう。今回貴殿を呼んだのは我が家とヘーフェヴァイツェン家の婚約についてだ。このままでも私は問題はないと考えている。なぜなら、この婚約には子を設けることは必須事項ではないからだ」
「……はい」
「とはいえ、子を孕み産むのは女だ。貴族の子を成せる歴とした貴族の女を二人も余らせるのは道楽と誹りを受けても仕方がない」
「理解しております」
話の流れを汲み、ゲルハルトはこの婚約を調整する必要が出てきたのだと察せざるを得なかった。クラウス個人の思想さえ、契約の前では無意味なものなのだ。
「他方、性別の変化は一ヶ月ほどで終わるものもあれば、生涯戻ることはなかった事例も存在する。これは王家所蔵の図書の閲覧を許可された際に見つけた蔵書によるものだ。貴殿がどちらのケースに相当するのかは分からない」
クラウスが足を組む。ゲルハルトが不穏さを感じているにもかかわらず、クラウスは悠然と、そして淡々としており、話の先を読むことはかなわなかった。
「場合によっては婚約者を変える必要は出てくるだろう。例えばアドルフィーナをアルベルト卿の婚約者にするのが、双方不安もなくていい。しかしヘーフェヴァイツェン家を継ぐことが決まっている卿では、バランスをとるための婚約という前提がそもそも崩れてしまう。
私としては、貴殿が私へ嫁入りするのがよいのではないかと考える」
「……?!」
は、と聞き返したかった言葉はゲルハルトの喉を震わせることなく口から抜けていった。クラウスの態度や表情からはなんの意図も窺えず、ゲルハルトは身体を強張らせた。
「何故……そうなるのか、おうかがいしてもよろしいでしょうか?」
ねっとりと張り付くような喉を無理矢理こじ開け、かろうじて会話を続ける。クラウスは鷹揚に頷いた。
「一番はアドルフィーナのためだ。今から相応しい家を探しても私は納得しかねるだろう。かと言ってあれに恋愛結婚などというものも考えられない。そもそも実家たる我が家の力が大きすぎる。まともな家であればあるほど固辞するだろうし、飛びついてくる輩は願い下げだ。
ならば今暫くアドルフィーナの婚約者の座は開けておくのが吉。
私自身は現在婚約者もおらず、抱き込みたい家もない。アドルフィーナがそちらの嫡子と結ぶより、男に戻る可能性を残し続けるゲルハルト殿が私と結ぶ方が両家の関係も丸く、ゲルハルト殿を持て余すこともなければ、貴殿を淑女として生涯守り切ることも可能。仮に話がまとまった後で貴殿が男に戻っても、どうとでもなる」
ゆっくりとそう語るクラウスから圧を感じ、ゲルハルトは膝上においた手をいつの間にか握りしめていた。
ゲルハルトとて力持つ貴族の家に生まれ、育てられている。クラウスの言葉に否やはない。実際、女の身体で、いつ男に戻るかも不明のゲルハルトを嫁に出すことは難しい。修道院に入れるのも同じ理由で却下されるだろう。家に益をもたらすこともなく実家でこじんまりとした家を与えられ、生涯をそこで過ごすことになる可能性も否めない。
であれば、クラウスと縁を持つほうが有益で、そもそもの婚姻の前提も覆すことがない。『女として』どう扱われるかは分からないが、クラウスが両家の関係を悪くしないように努めるならば、ゲルハルトもまた無下に扱われることはないだろう。
それでもゲルハルトは男に戻り、アドルフィーナへの態度を今後改めていくことを諦めたくないと思っている自分の気持ちを直ぐに切り捨てることができなかった。
クラウスに対しその思いを吐露しなかった、できなかったのは、謝罪と贖罪をする機会を失うことが罰として相応しいのかも知れないと自分の状態を見て考えたからだった。
自然とゲルハルトの視線が下がっていくのを見ながら、クラウスは組んでいた足を戻すと、開いた膝に肘を置き、前傾姿勢になった。
その動きとともに、ゲルハルトの顔が持ち上がる。その表情は直ぐに強張った。
冷静で落ち着いていたクラウスの顔から、表情が抜け落ちていたからだ。
「ひとつ試してみるか?」
「……!」
「孕めば元に戻ることはないかもしれん。私が責任をとることはそう難しくはない」
ひ、とゲルハルトの喉から引き攣れたような音が漏れる。か細いそれは儚く脆い身体を主張するもので、ゲルハルトはまるで蝋で固められたかのように身動きがとれなかった。
それを的確に見抜いた上でクラウスは目を細め、続けた。
「怖いか? そうだろうな。私は力に覚えがある方ではないが、それでも今の貴殿を押さえ込むことは赤子にするのとそう変わらないほど簡単だろう」
「……」
ルシャードの一件で既に経験していたことだ。あれは不愉快さと悍ましさを感じる余裕があったが、クラウスには下卑た欲望のようなものは一切感じられず、ただゲルハルトに対する冷ややかな怒りがあるばかりだった。
喉元にナイフの切っ先をあてがわれているような。
はくはくとゲルハルトの唇が動く。音は出てこなかった。
「正確には異なるだろうが、今貴殿が感じている全て、アドルフィーナが以前貴殿に対し感じたものだ。……もっとも、今はどうだかわからないが」
クラウスはそうして充分にゲルハルトへの威圧を済ませると、満足したのか、すっと身を引いた。前傾姿勢を崩し、再びおもむろに足を組み、ジャケットの内ポケットから懐中時計を取り出す。クラウスの鋭い視線が逸れ、ゲルハルトは座っているにもかかわらずソファへ深く身体が沈み込むのを感じた。血の気が引いていた身体に熱が戻り、温度差に汗が出た。
「私からの個人的な抗議は以上だ。幸いこの婚約は急ぐものではない。時間は十分にある。貴殿と妹との婚約が良いものになるよう願っている」
******
アドルフィーナの知らぬうちに個人的な制裁を下していたクラウスは、アドルフィーナがそうと知って兄の元に駆け込んだ時には既に、頬に巨大な湿布薬が貼られていた。
「お、お兄様……そのお怪我は一体」
「アルベルト卿に『流石に私刑が過ぎる』と殴られた。これでお前が糾弾したい事に対する手打ちとしてくれ」
「それは……また」
学園に登校した際、ゲルハルトがやけに気落ちしているのを感じたアドルフィーナは、きっと兄が何かしたに違いないと意気込んでいたが、早々に出鼻を挫かれた。
既に然るべき人から相応の罰を受けた後だと言われると、それ以上は過剰だろうと口が重くなる。
「私はただ、お前の兄として言うべきを伝えただけなのだが……」
「お兄様は率直にものを言いすぎて誤解されることが多いのですから、もう少し手心があってもよかったのではないですか?」
「しかし、それでは優しすぎる」
「では、相手を萎縮させることをよしとした以上、お兄様に弁明の余地はないかと」
一体何をしたのだろうかとアドルフィーナはクラウスへ胡乱な目を向ける。
しかしクラウスは珍しくなんの衒(てら)いもない微笑みを浮かべると、その表情の通り、楽しげに笑った。
「はは、まあ、言っただろう。悪いようにはならないと」
「……流石に、もっと御身を大事になさってくださいませと、小言を言わずにはいられません」
「甘んじて受けよう」
これだから婚約者の一人もいないのだ、と思いながら、兄の振るまいを強く諫められない自分自身も同罪だとアドルフィーナは苦笑した。
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