5. ゲルハルトと人付き合い

 朝、血まみれのシーツに絶叫してから丁度7回目の朝にはすっきりとした気分で、ゲルハルトはベッドから降りた。女になって一ヶ月経つが、うっすらとした焦燥感以外は寧ろ以前より落ち着いていた。やはり女に囲まれるのは少なからずストレスだったのだなと改めて考えた。

 かと言って、女のままでよいとも思わない。男には戻りたいが、それは女というものを嫌がっているからではなく、アドルフィーナを男として支えたいからだった。


「おはようございます、ゲルハルト様」

「おはよう、アドルフィーナ」


 二人のやりとりは以前よりもずっと柔らかいものになっていた。声色も、表情も、誰もが互いへの優しさを感じただろう。


 だからこそ、気が緩むには充分だった。


「アドルフィーナ、今日学園の授業が終わったら……少し、一人でゆっくりしたいのだが」

「……わざわざ仰ると言うことは、タウンハウスではなく、外で、ということでしょうか」

「ああ」


 決して険のある声色ではないが、常に人の目のあるところで監視されているような生活は、男だったゲルハルトには辛いものがあった。特に彼は実践経験こそないものの身体能力には恵まれており、見た目にも立派だったため、隙さえ見せなければある程度は自由に行動できたということも大きい。王都の中でも、貴族階級しか立ち入りを許可されていない敷地というものはあって、そう言った場所は治安が良い。

 女の場合は同じ貴族階級の男から乱暴をされる事例があるため、それでも一人での外出は有り得ないことだった。


「流石にコーヒー・ハウスに行きたいなどと馬鹿なことは言わない」

「貴族の女性が外で、というのは護衛抜きには難しいですね……。学園内での小規模なカフェブースを貸し切る程度であれば……ゲルハルト様の事情を知っているものも多いですし、そう滅多なことは起こらないと思いますが」

「そうか……いっそ居酒屋(タバーン)はどうだ?」

「あれも上は王家から下は泥棒までと言われるほどですし、お酒の入る場所は厳しいでしょうね。なんと言っても今のゲルハルト様は未婚の貴族女性ですから……。それでもと仰るのであれば……そうですね、修道院での宴会ですとか、あるいはそこで行われている酒造の見学や体験などでしたら、未婚女性こそ歓迎されるでしょう」

「ブドウ踏みか?」

「それもありますが、口噛み酒の方が一般的ですね」


 清い女性にしか許されていないという意味では、ある種今しかできない貴重な体験だ。しかしゲルハルトは首を振った。


「いくら見かけがそうでも、俺自身が女であることを進んで受け入れていない以上、みだりに入っていかない方が良いだろうな」

「でしたら、孤児院の慰問でしょうか……。この辺りはヘレナ様に窺った方がよろしいかと」

「なるほどな。少し息抜きがしたくなっただけだから、今日は学園内を少し歩くくらいでいい」

「かしこまりました」

「……面倒をかけてすまんな」


 ゲルハルトの言葉にアドルフィーナは目を見開いた後、目尻を下げて微笑んだ。


「とんでもないことです。やっと外に出られるのですもの。心中お察しいたします」


 アドルフィーナがなんでも無いことのように言えば言うほど、ゲルハルトは今まで自分がどれほど無理解だったかを突きつけられていた。


 そして同時に、交友関係のだらしなさは害となることを身に染みて理解することになる。




 放課後、花を摘みに行くというアドルフィーナに中庭の見通しの良い場所のベンチで待っていると言ってゲルハルトは本当に束の間の休息を得た。

 噴水や植木は目に優しい上、耳も楽しませてくれるが決してうるさくはない。

 男の頃はどうしても女子生徒達の視線や声かけがあったため、本当に静かに過ごすのは久しぶりだったのだと彼は気づいた。

 同時に、男に戻った暁には、誰も『あわよくば』などと思わないほどにアドルフィーナとの関係を密にしようと心に決める。自分のそう言った隙が、良からぬ考えを抱かせていたのだろうと意識を改めた。


 決意を新たにしつつも、人間関係の清算など、今すぐにできることではない。


「よっ、ゲルハルト。随分キレーになったじゃねえか」


 さくさくと芝生を踏みながら、行儀悪く近づいてきたのはノイラート伯爵家のルシャードだった。ルシャードは質の良い木材をはじめとする事業で一財産を築いたノイラート家の三男だ。新興貴族の中でも最も勢いがある。

 ルシャード自身は親から貰う爵位もなく、ゆくゆくは商人として身を立てることになっているはずだ。今はノイラート家が支援している商家から学ぶべきを学んでいると、以前耳にしたことがあった。

 商人としての気質だろうか、まだ未熟だからだろうか。ルシャードは即物的なところがあり、非常に欲が強い男だった。ゲルハルトの耳の届く場所で、女を下に見た発言をし続けたのもルシャードが中心となった小規模のグループだった。


「何か用か」

「いやなに、今までユスティーツブルク公爵令嬢がぴったりくっついて近寄れなかったからな」


 今ならば彼を遠ざけなかったのは自分の落ち度だと分かる。男の頃ならばいざ知らず、以前と変わらない態度で近づいてくる彼にゲルハルトは眉をひそめた。

 学園内はのようなものだ。身分の差にかかわらず、討論を交わしたり情報をそれとなく集めたりすることは決して咎められることではない。

 しかし、実家の家格は間違いなく存在する。だからこそ誰に対しても礼節をもって接するのが暗黙の了解だった。

 ルシャードのような商家に出される者や、代々この国で商売をしている身元の確かな商人の娘息子の中には貴族として生涯を送るものと比べて徹底した教育が行われていない場合もあるものの、決して一般的なことではない。


「今までそこまで婚約者面してなかったのに、なんでまた急にべたべたくっつくようになったんだ? もしかして彼女、女の方が好みだったとか?」


 ゲルハルトがさっと視線を走らせても、そこまで人の目は多くない。僅かに気にかけているような顔ぶれはいたが、あまり接点のない女子生徒で、とてもではないがこちらに近づいてくるようなタイプには見えない。


「ルシャード、何が言いたい」

「怖い顔するなよ。それで、本当に女になったのか? 


 ゲルハルトは眉をひそめる程度では済まなかった。明け透けを通り越したルシャードの言葉に顔を顰める。

 しかしそれさえも彼にとっては愉快なのか、妙に不愉快な表情は変わることはなかった。


「今のうちにちょっとくらいつまみ食いを……」

「不愉快だ。ノイラート家は貴殿を放逐するんだったかな。ああ、謝罪は結構。今回に限り目を瞑るが、次はない」

「は?」


 ゲルハルトはさっと立ち上がり、直ぐに歩き出した。アドルフィーナが来る前にこの男を遠ざけるか、さもなくばこちらが立ち去るかを決めなければならなかった。

 幸い、アドルフィーナが花摘みに行った場所は把握している。こちらから彼女を迎えに行けば、アドルフィーナとルシャードが鉢合わせすることもないだろうと考えた。


「おいおい、ちょっとした冗談だろ」


 しかし、ルシャードはゲルハルトの肩を掴み、引き留めた。少し力を込められ、容易くルシャードに向き合うよう身体を反転させられる。正面を向いたゲルハルトの細くなった腕を、ルシャードの手が拘束した。


「っ、放せ……!」


 振り払おうとゲルハルトが腕に力を込める。しかし、明らかに対した力を込めていないルシャードの手さえ振り払えないことに、ゲルハルトは危機感を覚えた。

 このままではまずい。

 殆ど直感に近い感覚で、胸の鼓動が急き立てるように早くなっていく。足先が急速に冷え、ゲルハルトは一か八かで大声を出そうかと腹に力を込め、喉を震わせようと唇を開いた。


「ノイラート伯爵令息様、手をお放しください」


 ゲルハルトからすれば真後ろ、まさに行きたかった方向から硬い声が響いた。


「ユスティーツブルク公爵令嬢、……っと、これは」

「言い訳は不要です。ゲルハルト様は未だわたくしの婚約者ですし、仮にそうでなくなったとしても我が家とヘーフェヴァイツェン侯爵家が今回縁を結ぶのは変わりません。両家を敵に回すつもりがないのであれば、下がりなさい」


 腕を掴まれたまま身をよじって振り返った先には、ゲルハルトが一度も見たことがないほど冷ややかな表情でルシャードを見据えるアドルフィーナが立っていた。丁度廊下から中庭に降りていくための入り口にいる彼女の方が目線が高い。しかし、そのまま中庭へ降り、ゲルハルトの元へ歩いてきてもなお、アドルフィーナの高圧的な視線は変わることはなかった。


「ご令嬢には分からないだろうが、こちらにも男の付き合いというものが、」

「あら、そうですか。わたくしにはおよそ紳士の振る舞いではないように見えましたが……。家か勤め先予定の商家に確認いたしましょう。それとも通報しましょうか。下賤な男が学園の敷地に紛れ込んでいると」

「……!」


 ぎり、とルシャードが歯噛みした音がゲルハルトの耳に届く。瞬間、ルシャードが粗い動作でゲルハルトの腕を放した。放す瞬間こもった力は強く、ゲルハルトはたたらを踏むように距離を取ると、殆ど反射的に掴まれていた場所を庇うように手を当て、労るように撫でた。

 ルシャードからすれば大した力ではなかっただろう。ゲルハルトが男の身体のままであったら、同じくなんでもない、少々拗ねたような仕草でしかなかったはずだ。

 しかし今のゲルハルトにとっては脅威を覚えるほどの行為だった。ともすれば肩の関節が外れるのではないかと思えるほどに。


「失礼する」


 肩を怒らせながら、アドルフィーナがいる方向とは反対にルシャードが去って行く。それを黙って見送りながら、ゲルハルトはいつの間にか浅くなっていた呼吸を整えた。


「申し訳ありません、ゲルハルト様。お怪我はございませんか?」


 悔やみながら心配しているアドルフィーナには、先ほどまでの冷ややかな空気はない。そうして彼女は身の回りの人間関係をコントロールし、自分の安全を確保してきたのだと分かる変わりようだった。


「痛むが、怪我と言うほどではない。それに、アドルフィーナが気に病むことはなにもない。俺の甘さと意識の低さが招いた結果だ」

「何事も全て失敗せずにいることなどできません。それに、ゲルハルト様に落ち度があったとしても、それが全ての原因ではないでしょう。ノイラート伯爵令息様の振る舞いがそもそもおかしいのですから」


 緩く首を左右に振りながら、アドルフィーナは痛ましげにゲルハルトが手を当てたままの腕を見遣る。その目にいたたまれなくなったゲルハルトは、誤魔化すように両手を挙げて肩をすくめた。


「二言はないから、今回のことは問題にするつもりはない」

「はい。ゲルハルト様のよろしいように」

「すまなかったな。俺が軽率だったばかりに」

「あまりご自分を責めないでくださいませ。先ほどは強く非難しましたが、学園にいる間、多少の素行不良は改善することを前提にお目こぼしがあるものです」


 アドルフィーナに慰められ、ゲルハルトは曖昧に頷きつつも胸が締め付けられるような心地だった。

 そして痛感する。今まで異性を、女を厭わしく思っていたのは性別が問題だったのではない。透いて見える下心と、今の間にしか大目に見られない程度の無礼な振る舞いに参っていたのだと。

 そして自分もまた、アドルフィーナにそのように接していたことを。

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