4. ゲルハルトと女生活
ゲルハルトはベッドの中で目覚めたときから億劫だった。結局三日間、目一杯学校を休んだが、それは殆ど根回しが行き届くまでのただの準備期間でしかない。強いて言うならば、三日間の間に排泄に慣れたことだけは良かったと言える。
登校した際の周囲の目を思うと気が進まない。それでものそのそとベッドからずり落ち、女物の制服に袖を通し、朝食を食べる。家の方針だということ以上に、近しい人間が殊更に奇異の目で見てこないことが、ゲルハルトの心の支えだった。
ゲルハルトがどれほど嫌がっても時間は過ぎる。それにありがたささえ感じながら、迎えに来たアドルフィーナと共に馬車へと乗り込んだ。
「おはようございます、ゲルハルト様」
「……おはよう」
「お疲れのようですね」
「母上から淑女のいろはを叩き込まれたからな……」
学校までのそう遠くない距離を馬車に揺られながら、アドルフィーナは苦笑した。気の緩みなのか反抗心なのか、ゲルハルトは男の時の感覚のまま姿勢を崩し、だらしなく背もたれに上半身を預け、足を投げ出していたからだ。
「そのように座られますと、制服の後ろにある衣装が崩れますよ」
「……それは困る」
のろのろと姿勢を正し、ため息をつきながらも綺麗な据わり方をするゲルハルトに、アドルフィーナは目を細めた。異性に対する思考に偏りがあるだけで、ゲルハルトがとびきり優秀なのは変わらない。女性と男性で美しいとされる所作は大きく変わる。それを姿に見合った風に振る舞えるのは努力の賜物だろう。本人は付け焼き刃だと思っているが、そう言う意味でゲルハルトは自分を過小評価している。
決して腐ることがないことも、彼の美徳と言える。
学園に着くと、アドルフィーナと共にいるのがゲルハルトであるというのは既に周知されていた。その美しさに男女問わず多くの視線が飛び交ったが、ゲルハルトが思っているよりも騒がしいものではなかった。
拍子抜けした、というと自意識過剰かもしれないが、それをするには十分な立場と見た目を誇っているのがゲルハルトという人間だった。
こんなものか、とゲルハルトが安堵にも似た感情を覚えた直後、アドルフィーナが教室へのドアを開けながらゲルハルトを振り返った。
「ここはなんと言っても学園で、身元の確かな家の出の者ばかりですから、堂々としていれば不用意に人をからかうような無作法者は近づけないでしょう。
胸を張ってください。夫人の指導通りに背筋を伸ばせば、それだけで周囲を圧倒できるのがあなたなのです」
「……分かった」
身長も変わったせいで近くなった目線の中にゲルハルトを鼓舞する色しか見えず、ゲルハルトは言葉少なに頷いた。
実際にアドルフィーナのその言葉は、ゲルハルトが思う以上に彼を支えた。
アドルフィーナは以前と変わらずゲルハルトに対し過度な触れ合いは行わなかったし、以前は気安かった男子生徒達も、ゲルハルトの見た目から『婚約者のいる女性』として扱ったからだ。
ゲルハルトの身に起こったことについて興味深そうにしても、アドルフィーナという見た目も中身も女性である存在がいるからか、みだりに口にしたり、深掘りされることもない。
恙無く授業を受け、食事をし、問題なく学園での一日を終える。隙があれば寄ってくる女子生徒もめっきり減った。彼女たちは男として機能しているゲルハルトを望んでいたのは明らかだった。
一方、ゲルハルトの境遇を心配して声をかけてくる女生徒は普段見ない顔ばかりだった。どの顔ぶれも伯爵以上で、婚約者がいた。
アドルフィーナが側にいると言うこともあったのだろう。ゲルハルトは殆ど初めて、まともに他意のない女性の声を聞いた気がした。
心配だけでなく、これを機に交友を持って家の利としたい思惑を持つ者もいただろう。だが、節度を持った声かけは決して不快ではなく、ゲルハルトは彼女たちに感謝を示したのだった。
何事もなく一日を終えられたのはゲルハルトにとってよい成功体験になった。女子生徒達の気遣いも心強く、何よりアドルフィーナがゲルハルトに対する他生徒達の距離感を制御していたのには目を見張った。
帰宅への道すがら、朝と同じように馬車の中でその疑問をぶつけると、アドルフィーナは僅かに首を傾げた。
「今のゲルハルト様はご本人がどう感じていらっしゃるかにかかわらず完全に女性です。しかも非常に見目麗しい。万が一にも無体な真似をされてはいけませんし、他の生徒達にさせるわけにもまいりませんから……。残念なことですが、上に立つ者としての在りようを統一するという趣旨のある学園が始まって長い年月が経っておりますが、生徒の質はいつも均一ではありません。
平時であればそれもまた一興ではありますが、わたくしたちはまだ未熟な身。何かの弾みで本意ではない大事になる可能性もあります。家の格が高い者がある程度コントロールするのは義務かと」
「……俺は、男としてそこまで意識することはなかったが」
「男性と女性とでは、求められる役割も印象も異なるからでしょう。それに、同性のお付き合いの仕方もかなり違うものなのではありませんか?」
「ああ、それは感じたな」
男同士の付き合いというのは時として下世話な話を含む。利害関係もかなりシビアで、家の事業のために資金を引っ張れるかや、将来的に利用できるかどうかが大部分を占める。かなりビジネスライクだと言えるだろう。それらが関与しないとなると、コーヒー・ハウスのような社交場で、身分がさほど関係のない場での討論や情報交換が主になる。
他方、今日感じた限りでは、女同士というのは基本的に自分の身を守るために複数人で行動している。話が合うことや気が合うことが友人として付き合う重要な部分であり、自分自身がどれほど有用な存在なのかを女同士で示し合う必要は必ずしもない。ゲルハルトには見せないだけでプライドからくる競り合いはあるかもしれないが、少なくとも男に戻る可能性がある彼に向かってそう言った部分を最初からむき出しにするような品のなさはなかった。情報交換は茶会で行われるが、ゲルハルトが女の園たるその場に呼ばれることは当面ないだろう。
ゲルハルトの予想よりもずっと、彼女たちの振る舞いは正しく、心地よいものだった。
ゲルハルトが女に対する認識を改めるのにそう時間は掛からなかった。自分の身体が女のものになるだけで、女子生徒から受ける扱いが随分変わったのが大きい。アドルフィーナがゲルハルトに対する振る舞いを殆ど変えなかったのも、彼が認識を改めたきっかけだった。
「ゲルハルト様は元々、体躯に恵まれておいででしたから難しいことはなかったことと思いますが、今では不慣れなことに直面しやすいでしょう。お出かけに気後れすることもあると思いますので、だからこそ観劇などで気晴しをするのは大切だと愚考します」
そう言われ、あちこちにつれて行かれた。それぞれの家の護衛を連れ、時にはアルベルトやクラウスが付き添いつつ、二人は制服姿で様々な場所へ出向いた。男女の姿であった頃よりも余程仲睦まじく見えたことだろう。
また、今の不安定なゲルハルトの心情を鑑み、アドルフィーナは可能な限りゲルハルトがやりたいことを優先した。アドルフィーナが見かけた性別が変わる不可思議な話が載った文献が読みたいと言えば共に図書館に向かい、その他にも関係しそうな書物を探すことにも尽力した。
アドルフィーナが手厚くゲルハルトを支えたことで、対外的にもゲルハルトが軽んじられることはなかった。
――女の身体になって三週間が経った頃、ゲルハルトの股座から血がしたたり落ちるまでは。
下腹部の腹痛はまるで内側で誰かがぎゅっと拳を握っているような、きゅうっと絞るような感覚で、それに伴って腰まで怠く、重く、ゲルハルトを苦しめた。
また未知の場所からどろりと血がしみ出す感覚は恐ろしく、また同時に不快で、起床して直ぐに身体に感じた違和感と、シーツが血で汚れているのを見たゲルハルトは失神しそうなほどショックを受けた。
直ぐに事態を把握したヘレナとアドルフィーナの指導で真綿を清潔な布でくるみ、それをしっかりと股に挟んで上からベルトを締める。人によっては真綿を血が出てくる場所に詰めると聞いて、ゲルハルトは震え上がった。絶対にそれだけは嫌だとおののき、二人に取りなされるのにも時間を要した。
未知の場所で未知なることが起こっている。
子作りの作法は伝聞で知ってはいても、股から血が出てくる事象が、女の身体が成熟し、子を成す準備ができたことを示すのが血を流すことだとは知らなかった。突貫ながら二人にあれこれと教わったゲルハルトは極力ベッドで安静にすることになった。家の中であれば多少の粗相も気にならないだろうからと、アドルフィーナに気遣われたからだった。
痛みを和らげるためにハーブティーを飲んだり、アロマを焚いたり、とにかく身体を冷やさないように努めたり。動けない、動きたくないせいで足のむくみも酷く、メイドに丁寧に足を揉まれながら、ゲルハルトは身体に表れる不調に滅入ってしまった。
これが月に一回やってくる? 平均して7日間も続く? 子が産めるようになって喜ばしいこと? とんでもない!
ありとあらゆる嘆きが胸中で吹きすさぶ。それでも、人によっては一週間前から徐々に体調が悪くなったり感情のコントロールが難しくなったり、はたまた血が止まっても暫く不調が続くこともあるという。それらを時に気合いで、時に気晴しで、どうにかやりくりしているのだと。
ひとまずアドルフィーナには学園で授業を受けるよう伝え、その日の放課後にやってきた彼女を、ゲルハルトは頼りない気持ちで迎えた。立ち上がるとどろりと何かが垂れる感覚があり、それが赤黒い血液であると知ってしまった以上心穏やかではいられない。仕方がなく用を足す時だけ動き、それ以外はたっぷりとクッションを使って、ベッドの上でゆったりと座るような体勢で湯たんぽを抱えていた。
あまり食欲のないゲルハルトに、少しだけでもと用意された軽食を取り分けるアドルフィーナの様子はやはり落ち着いており、ゲルハルトは彼女の身体にも月に一度こんなことが起こっていることが信じられなかった。
「ゲルハルト様のお身体は少々症状が重い方かもしれませんね」
「……失礼を承知で聞きたいのだが、アドルフィーナは……いや、本当に礼を失しているな。すまない、なかったことに」
「飽くまでわたくしの主観になりますが、わたくしは鎮痛のお薬を処方されないとままならないことがしばしばございます。頻繁に学園を休むわけにも参りませんし……ただ、お花を摘む回数を少し増やして、三日間ほど耐えれば終わります」
「……本当に……個人差が激しいのだな」
アドルフィーナが語る一般的、平均的な症例は本からの引用らしい。女の医師による聞き取りのデータをまとめたものが出版されているのだそうだ。ゲルハルトはおろか、世の男の大半は知らないことだろう。
「……すまない、言いにくいことを」
「みだりに口にする話題ではありませんが、ゲルハルト様に必要なことでしたら惜しむようなことではないと」
「君が頻繁に……あれこれと誘ってくれていたのも、どんな気持ちかも知らなかった」
「必ずしも、月のものの気晴しというわけではありませんよ。それに男性には秘されることですから……大体は、折を見て年長の男性から口伝で多少教わることが多いようです。ただ、わたくしも女でございますから、具体的な内容や時期というのは存じ上げません」
それはそうだろう。そう思いながらゲルハルトは黙って一度顎を引いた。会話をするのも億劫だが、ベッドの上で軽く膝を曲げ、湯たんぽを抱えているとほっとする。
「早く終わってくれることを祈るばかりだ……」
「そうですね。風邪を引いたり、熱っぽくなったりしますから、くれぐれもお大事になさってください。よくお水を飲んで、温かいものを召し上がって」
「ああ。気遣い感謝する」
うとうとと眠気がやってきて、アドルフィーナは毛布を整えると、眠りの挨拶をして退室した。目だけで見送ったゲルハルトは、そのまま気を失うように眠りについた。
そんな風にして眠気と戦いつつ、症状が治まるにつれて精神的にも回復したゲルハルトは、ヘレンやアドルフィーナと話し合いながら学園へ登校する日取りを決めた。学園からはアドルフィーナの監督の下レポートを提出することが決まっており、学園が終わったその足で毎日顔を合わせ、課題に取り組んだ。何度か詫びたが、これも女子生徒の間では珍しいことではないと柔らかくフォローされ、ゲルハルトは次第に素直にその言葉を受け入れるようになった。
女の身体になってから話すようになった女子生徒からの見舞いの品々はどれも月のものの間、身体を労るためのもので、清潔な真綿、茶葉、アロマキャンドル、匂いの強くない花束と、どれも労りの気持ちを感じたからだ。価格によることのないそれらは、家格を問わず皆で少しずつ持ち寄ったという。期間中には十分だが、来月までこのままであれば不足する。ゲルハルトの身体がどうなるか分からない中、嫌味も恩着せがましくもない心遣いがあった。
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