2. ゲルハルトと女の身体
「なっ……なっ……なっ……!」
なんでも無い日の、なんでも無い朝のはずだった。
ゲルハルトは部屋に置かれた鏡の前で自分の顔と造形を改めると、絶句した。意味のない音が喉から漏れる。変声期を経て漸く聞き慣れたはずの声は様変わりしていた。
「なんだこれは~~~ッ!」
起きて直ぐ、異変は知れた。ほっそりとした腕。まろやかな手の甲。ふにふにとした身体。
なにより、胸に実った蠱惑的な果実――男である彼が得るはずがないもの。そして混乱のまま男である彼が失うはずがないものを確認すると、変声期前よりもずっと細い声を出しながら、ゲルハルトは絶叫した。
頭が理解を拒む。鏡に映るのは間違いなく女性の姿で、極上の顔と身体をしていた。異性に対し辟易としていたゲルハルトでさえ、たわわに震えるそれにドキリとしたほどだった。
「なんだ、騒々しい」
「兄上! い、いつのまに」
「メイドが見知らぬ女がいると知らせに来た。実際に来てみれば、鏡の前で狼狽えている『お前』がいるじゃないか」
「……はっ あ、兄上、俺が分かるのですか……?!」
「まあな。男のお前を華奢にして女にしたらそんな顔だろう」
ゲルハルトの兄、アルベルトは開け放たれたドア枠にもたれつつ、器用に肩をすくめる。
ゲルハルトははっと気づいたように表情を強張らせると、ぎこちなくシャツの前を手で寄せて押さえた。兄の視線があられもなくはだけた胸元に注がれているのに気づいたからだ。
「あ、朝っ! 目覚めたらこのようなことに……!」
「心当たりは」
「ありません! あるわけがない!」
ヒィ、と自分が出した甲高い声にゲルハルトは目眩がした。
何故こんなことになったのか、何故兄はこの奇妙な状態を受け入れているのか。
「兄上はどうしてそのように落ち着かれているのですか……!」
「そうなってしまったのだから今後そうあるように考えるしかあるまい。だが、その見てくれが『誰も彼もがそう見えているだけ』なのか、『事実身体が女のものになっている』のかは検証の余地があるかも知れないな。尤も、私は協力できないが」
「なぜです!」
「それはそうだろう。見た目だけは華々しい女なんだ。どこからどう見ても男の私が、同じく女にしか見えないお前の身体に触れるのはいくら家族と言えど度が過ぎる」
淡々とした兄の言葉に、ゲルハルトは手足の先が冷えていくのを感じた。決して兄弟仲は悪くない。いつもの兄の窘めるような声色も同じ。
しかし今のゲルハルトには、アルベルトから冷たく突き放されたようにしか感じられなかった。
「母上には伝えておこう」
「なっ、あ……!」
「その必要はありません。ここにおります」
「母上っ?!」
アルベルトの影から、母たるヘーフェヴァイツェン侯爵夫人、ヘレナが現れる。その顔はアルベルトと同じく、狼狽した様子はまるでなかった。
「歴史上、このようなケースは実は度々あるのです。尤も……その後どうなったのかまでは不明なものが多いですが。ですから、隠す必要もありません。然るべき機関には当然報せます。
ゲルハルト。女の身になっただけですから、当然学園には通いなさい」
「そ、そんな……!」
「……最長で三日間、家にいることを許します。その間に根回しを済ませ、あなたもそのつもりで過ごす準備をしますよ」
ヘレナはきびきびと話すべきことを伝える。淀みない言葉にゲルハルトは面食らった。
「母上まで、どうしてそのように落ち着いておられるのですか!」
「言ったでしょう。この国において、全く初めてのことではないからです。それよりもゲルハルト、そうなったからには女として過ごさねばなりません。ドレスを仕立てなくては」
「ドレス?! 俺が?! 絶対に嫌です!!」
「女が男の装束を纏うのは、そういう趣味の場くらいのものです。はしたない真似はさせません」
「で、ですが……!」
どこか愉快げに二人のやりとりを見つめるアルベルトの口元は僅かに弛んでいたが、じっとゲルハルトを見つめたまま話を続けるヘレナも、ヘレナに対し必死に反抗するゲルハルトもそれには気づかない。
ヘレナは声を荒らげるゲルハルトに対し、少し考える素振りをした後、アルベルトにデザイナーを手配するように指示をした。アルベルトは頷き、去り際にゲルハルトへ告げる。
「幸いにも父上は遠い領地だ。今から連絡するにしても時間はかかる。直ぐにこちらに来ることも不可能だ。せめて父上がこちらに来る頃には、見苦しい振る舞いを抑えておくように」
言うだけ言うと、ゲルハルトが追い縋ろうとする声もそのままに、軽い足取りで廊下を歩いて行った。夫人はそれを見送ると、もう一度口を開いた。
「食事は運ばせます。制服については、一度あなたが今まで着ていた男物を直して間に合わせることも可能ではありますが……実際に着てみれば、あなたも考えが変わるでしょう。それまで大人しく待っていなさい」
アルベルトと同じように、ヘレナも部屋を後にする。メイドによって部屋の扉が閉められるのを呆然と見ながら、ゲルハルトはよろよろとベッドへ腰を下ろした。
シャツの前を合わせるようにしてしっかり掴んでいた手は細く小さく、しかし手の奥に感じる胸の柔らかさは、今までゲルハルトが触ってきたどんな素材よりも飛び抜けていた。そのことに恐慌状態になりそうなのを、気力だけでなんとか堪えている。
足の長さも違う。投げ出した両足を子どものように軽くばたつかせると、それがよく分かる。歩くのにふらつくのは決してショックを受けたからと言うだけではない。もどかしいほどに歩幅が狭いからだ。
「なぜ……どうして女になど……!」
ゲルハルトにとって年頃の女性は全て疎ましい存在だ。否、年頃でなくとも、ゲルハルトの容姿に惹かれて意味深に触れてくる手は、その意味も分からない頃から不気味で、年齢問わず厭わしいものだった。
精悍な顔立ちに恵まれた体躯。にもかかわらず、ゲルハルトが女に溺れていないのは幼少期からの異性にまつわる辟易するようなアピールの連続のせいだった。既婚者から節度のない秋波を送られ、そのうちに是非婚約者にと持ちかけてくる家の意向と、自身の欲望によって積極的に距離を詰めようとしてくる少女達。それらはゲルハルトを抑圧してくる存在で、だからこそ彼はそれに反発した。
一方で紳士たるもの淑女の扱いには気をつけるべしと教育されたゲルハルトは、10歳を越える頃にはすっかり異性に対する苦手意識が強固なものになっていた。それが攻撃的にならなかったのは幸いだったのだろう。
しかしゲルハルトは婚約者となったアドルフィーナに心を許すことはできなかった。
公爵家と言うことで人におもねる必要のないアドルフィーナは、ゲルハルトに過度な接触をしてくることはなかった。しかし安心できなかったゲルハルトは彼女に厳しく距離を保つよう言いつけ、強制した。
アドルフィーナは理解を示したものの、なにかとゲルハルトを誘った。観劇であったり、鑑賞であったりと様々だったが、どれもエスコートが必要で、ゲルハルトは極力その時間が少なくすむ観劇には応えたが、常にエスコートが必要な類いの鑑賞は徹底的に避けた。エスコートの際のアドルフィーナの手が、いつかどこかの貴婦人の手に重なり怖気がしたこともある。どうしても二人で行かねばならない外出などもなく、余程行きたければ護衛を連れて行けば良いとさえ思った。
二次成長期を迎えてゲルハルトにとって異性が脅威でなくなった後は、不快感だけが強烈に残った。同時に、同じく美しく花開きつつあるアドルフィーナを今まで以上に不愉快に思うようになった。学園に入学した後にできた知り合いが「女など男を慰めるだけの矮小な存在だ」と言って憚らなかったことも、少なからずゲルハルトに影響を与えた。彼自身はそこまで傾倒しなかったが、何かにつけ男の許可が必要な女というものを煩わしく感じるのに時間は掛からなかった。
婚約者がいてもゲルハルトに近づいてくる少女は後を絶たない。それが真実彼女たち自身の感情であると断じることができないことも、彼を億劫にさせた。
結局女というものは男の、家の当主の意のままに動く駒であり、許可や護衛がいなくては外出もできず、男に気に入られるために人生を使う。そういう生き物なのではないか。
母には抱かない感情だが、ゲルハルトにとって母以外がもたらす異性の振る舞いは、彼をそう思わせるのには充分だった。一度たりともそのように振る舞わなかったアドルフィーナは、そんな異性達の経験に埋もれて見えなくなっていた。
ゲルハルトの目は曇っていた。だから家族が皆落ち着いていたことに困惑はしても、違和感を抱かなかった。
ゆえに、既にユスティーツブルク公爵家嫡男のクラウスによってヘーフェヴァイツェン侯爵家への根回しは終了しており、母も兄も、ゲルハルトの身に起こることを全て承知していたことも見抜けなかったのだった。
朝食を終えて程なく、ヘーフェヴァイツェンお抱えのデザイナーからお針子が数人寄越され、ゲルハルトの部屋で制服の手直しが始まった。
しかし、小さく、細く、そして柔らかくなった身体に合わせてサイズを調整すると、あれよあれよという間に淑女にあるまじき姿になっていくのを、ゲルハルトは唖然としながら見送った。
「これでわたくしの言った意味が分かりましたか」
「くっ……」
豊かな胸、細くくびれた腰、子を望むには十分な尻周り。男性の装いを女の身体に合わせるだけで、はしたなく感じるほどあからさまに身体のラインが浮き上がる。特にゲルハルトが見苦しく感じたのは下半身だ。
貴族の女性、特に未婚であったり未成年であったりする十代の淑女は、一人では着付けができない服装をする。元々はそれらが乱れる事があるならば純潔を失う行為があったのだと分かりやすくするものだったと言われている。現在では『どのみち確かな身分の女性から生まれた子の血統は疑いようがない』として女性の貞淑さを求める動きは大陸ほど強くないが、さりとて安易な露出は眉をひそめるには充分で。
ゆえに制服も可能な限り肌を出さないよう手を尽くされている。
それがどうだ。
鏡の中のゲルハルトは、腰のくびれも相まって蠱惑的な尻が丸見えになっていた。トラウザーズは丸くぷりんとした形に添って絞られ、普通に立っているだけでその形が知れる。
これでは殆ど裸ではないかと、ゲルハルトは赤面した。
一方で、上半身はといえば男物も女物もそこまで衣装が異なるわけではないため、見かけ上違和感はなかった。あくまで『女としては』だったが。
「これでもまだ、男物を着て登校しますか」
「……いいえ……。俺はそのような恥知らずではありません」
「よろしい。では女物を仕立てます。ドレスについては……今のところ用意するような事態にはならないでしょう。どこかに出かけるとしても、パーティでもなければ制服で充分です。いざとなればアドルフィーナ嬢に助けてもらうのも良いでしょう」
制服は個人の体格に合うように丁寧にサイズを合わせているため、デビュタント前後の若者の正装と見なされる。卒業するまでは公的な場でさえ着用を許されるため、男爵家のような身分では特に好まれた。
しかし経済的に豊かな貴族達の間では事情は異なる。金回りの良さを示すためにも、ドレスやスーツを仕立てるのが一般的だった。
「しかし……それはそれで我が家の品格が落ちるのでは」
「あなたが今後男に戻ることも考慮してのことです。あまり最初からドレスにこだわっては、今後女として生きて行くつもりなのかと要らぬ憶測を呼ぶでしょう」
「……母上は……俺が元に戻れるとお考えなのですね」
「必ずそうなると安易に考えてはいませんが。母の段取りは間違っていましたか?」
「いいえ! ……嬉しく思います」
お針子に女生徒用の制服の採寸を改めてされながら、ゲルハルトは今日初めて声に喜色を滲ませた。突然の異常事態に寄る辺なく思われた心地だったのが、食事をし、温かい紅茶で胃を温め、そして母から見放されているわけではないことが分かったからだ。
自分は変わらずヘーフェヴァイツェン家の人間で、母の子であることに変わりは無い。その安堵で、ゲルハルトは女の身体となった事実を多少は受け止めることができた。
陽が差し込む部屋の鏡には、これ以上ないまでに美しい女性がぎこちなくも微笑んでいた。
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