これもいつかは昔話
宇野肇
1. アドルフィーナと婚約者
アドルフィーナは家へ帰宅するための馬車に揺られながら、きゅっと膝の上で手を握り込んだ。自分に対する不甲斐なさで痛む胸に、鼻の奥がつんとする。目の奥からじわりとこみ上げてくるものを押しとどめるために、必死で深く息を繰り返した。
アドルフィーナはユスティーツブルク公爵家の第二子だ。今年で16歳になる。腰まである深いブルネットの髪は日々の手入れの甲斐あって優しく巻かれており、両方のこめかみの辺りを一房ゆるくねじって後ろでまとめることが多い。薄緑のグレーがかった瞳は淡泊なようでいて、目元を縁取るまつげが華やかな面立ちを印象づける。上に同じ色を持った6つほど年の離れた兄がおり、既に当主から子爵位を預けられ仕事にいそしんでいる。アドルフィーナが王都にある王立学園に通うことになり、それまでは父について領地で仕事を習っていたのを、父の代わりにとわざわざ王都のタウンハウスに移って彼女の保護者を務める程度には彼女を可愛がっている。
そんな兄に、これから情けなくも縋ろうとしていることにアドルフィーナは自分を恥じた。だが、最早彼女にはどうすればよいのか皆目見当もつかない悩みがあった。
婚約者の人柄についてである。
アドルフィーナの婚約者は人気者だ。短く整えたグレーベージュの髪は絹のように艶めいており、同色の眉は凜々しく、やや垂れ目がちな青色の瞳は感情によって紫を帯びる。その神秘的な色の煌めきと、整った目鼻立ちは多くの女性の目を惹いた。
家柄も侯爵家と非常に高く、嫡男ではないものの、ゆくゆくは当主となる長子を支える立場を約束されていた。
ゲルハルト・ヘーフェヴァイツェン。彼は若くして異性に対し偏屈だった。
アドルフィーナとの婚約が結ばれたのはそれぞれ12歳のことで、その時既にゲルハルトは女というものに対しての嫌悪感を隠していなかった。しかもアドルフィーナにとって悩ましいことに、その態度は二人の時に限ってのものだった。既に彼は周囲に気取られないほど取り繕うのが上手かった。
二人の婚姻は貴族間のバランスを整えるためのもので、そこに二人の感情は排されている。だが、アドルフィーナはよりよい関係を築いていければと考えていた。
離婚は許されない。冷えた関係となれば別居も視野に入る。だが、関係が良好な方が面倒がなくてよい。互いに歩み寄れれば、これ以上よいことはないだろう。
にも関わらず、ゲルハルトはアドルフィーナを冷たく睨み付けた。
最初は顔合わせの席で公爵家の庭を案内することになった時。
「勘違いしないでもらいたい。僕がこの婚約に反対しないのは家のためだ。決して君を好ましく感じたからじゃない。必要なこと以外では僕に構うな」
まさか初対面で、家同士の関係も特に悪くないにも関わらず悪感情を向けられるとは思わず、アドルフィーナはその後どうやって帰宅したか覚えていない。
最初の宣言通り、ゲルハルトは婚約者として角が立たないように振る舞いこそすれ、それ以上のことは何もしなかった。それどころか、特にアドルフィーナのエスコートに関しては過度に身体を密着させるなと厳しく言い含めた。
ゲルハルトと上手くやろうにも切り口が見つからず、また家族へ吐露するにも上手く言える自信もなく、不安そうなアドルフィーナの顔を見かねたのか、父からは
「誰しも最初は他人からだ。これからゆっくりと時間を掛けて家族になっていくんだよ」
と見当違いな助言をもらったとき、アドルフィーナはたった一人、自分だけがこの婚約に不安を覚えているのだと理解した。
アドルフィーナがどうにかゲルハルトとの仲を改善しようと静かに模索を続けていたのは、ゲルハルトの態度が年頃の、特にゲルハルトの見目や立場に惹かれる少女達全てに向けられていたからだった。
14歳から18歳の男女が同じ教育を受けることになる学園は、デビュタントへ向けて、そして社交に慣れていくための練習場としての役割も持つ。貴族として必要な教育を受けつつ、時には男女で別れ、あるいは共に肩を並べて同じ価値観を共有することになる。
しかし、それはゲルハルトにとって悪い方へ影響することになった。学園にはまだまだ加減の分からない令息がおり、そして一時の熱に浮かされる令嬢がいたからだ。
ゲルハルトの異性への態度はより硬く、威圧的なものになり、そしてついにアドルフィーナは彼へと伸ばした手を叩かれてしまった。
「くどい! 婚約者としてやるべきことはやっている。せめて婚約者くらい俺を自由にさせて欲しいものだ」
誰もいない教室で、ゲルハルトはそう言ってアドルフィーナを睨めつけた。冷え冷えとした瞳は氷のようで、アドルフィーナは無意識に叩かれた手をもう片方の手で優しく庇った。ゲルハルトの力で倒れなかったのは、ダンスの練習の賜物だ。そしてそこまでのめり込んだのは、ゲルハルトに身を委ねることが許されないためだった。
「……出過ぎた真似を申しました。お許しください」
アドルフィーナが深く頭を下げると、ゲルハルトは鼻を鳴らして教室を出て行った。
そこでアドルフィーナは限界を感じた。自分にできる限りのことはしてきた。それでも、相手に歩み寄る気がなければそもそも始まらない。この関係は初めて挨拶を交わした頃から何ら変わっていない。
どれほどゲルハルトの興味を惹く話題を挙げようと「女の癖に賢しいぞ。もっと慎ましくあれ」と言われ、「媚びるな。不愉快だ」と無下にされ、挙句には「はしたない」と眉をひそめられる。
大人しくして近寄るな、というのがゲルハルトの態度だった。これ以上、なにをすればいいのかも分からない。ゲルハルトが婚約を嫌がらなかったのは、家の決定であること以上に、婚約者がいればまともな淑女ならば節度を守るだろうことを期待してのことだったと、アドルフィーナは理解せざるを得なかった。そしてその目論見は、学園で上手く作用することはなかった。アドルフィーナとゲルハルトの距離が近くないことに目をつけた令嬢は沢山いて、そしてゲルハルトの様子から彼によからぬ気を吹き込む――それは令嬢がよりどりみどりで、つまみ食いすればいいじゃないかという発言から、殊更に女というものを見下した思想まで様々だった――令息たちも少なからず存在したからだ。
もはや自分の手に余る事態になっている。かと言って突然弱音を吐き、ゲルハルトの態度を告発してもにわかには信じてもらえないだろう。アドルフィーナの方が合わせるべきだと諭されるかも知れない。
よってアドルフィーナは、まず、いつも静かに見守ってくれた自分の兄に相談することにしたのだった。
アドルフィーナの兄、クラウスは逞しい体躯でこそないものの、長身で貴族然とした優雅な出で立ちをしている。アドルフィーナとは異なりやや表情に乏しく、時として怜悧な印象を抱かせるが、彼女にとって兄はいつも穏やかで、近しい存在だった。
幼い頃こそ怖い人だと思っていたが、クラウスがアドルフィーナに言葉以上の含みを持たせたことはない。彼が「責任を持つ」と言えば真っ当に行うし、「いつでも相談してよい」と言えば、どんな日にも時間を作る。そういう人だった。
「お兄様、ただいま帰りました」
帰宅後、学園指定の制服に身を包んだままクラウスの執務室に足を運び、家令がドアを開けるタイミングに合わせて軽く礼を取る。アドルフィーナの声に、兄のクラウスは書類から目を上げて応えた。
「お帰り、アドルフィーナ。何か話があるとか」
部屋に入るよう促され、アドルフィーナは毛足の長い絨毯の上を歩いた。柔らかなカウチソファに腰を落ち着けると、直ぐに軽くつまめるものと紅茶がメイドによって供される。
応接室とは異なるため、クラウスは執務室の椅子に腰掛けたままアドルフィーナを見遣った。
使用人が静かに退室するのを見計らい、口を開く。
「あまり良い内容ではないらしいな」
「……はい。お父様に申し上げるには大事になるか、はたまた若輩者には見えぬ視点で語られるかと思いましたので、お兄様にと」
「随分前から悩んでいたものな。婚約者殿のことか」
躊躇いをそのまま言葉に乗せたアドルフィーナに対し、クラウスは彼女の心の中にずばりと分け入った。全て筒抜けだったのかとアドルフィーナは弾かれたように顔を上げる。見つめた兄の表情はいつもと変わらず静かなものだった。
「ご存じだったのですか」
「婚約が整ってからと言うもの、お前の表情は曇ってばかりだ。それが入学を機により深刻そうになっていくものだから、それとなく調べていた。無論、お前が何も言わないのだから私が出しゃばるわけにも行かなかったが。先方の兄君とは年回りも近く交流があるのでな。多少やりとりをしたくらいか」
「まあ……! で、ではもしやあちらのお家でもわたくしとゲルハルト様のことは、その、全て……?」
「いや、私とあちらの兄君……アルベルト殿までだな。ただ、ゲルハルト殿の素行についてはあちらのご両親も注視しているだろうが」
「……お、お恥ずかしい……ところを……??」
淡々としたクラウスの言葉に、アドルフィーナは恥じ入った。未だ何も成せぬばかりか、全て保護者に筒抜けだったとは。
クラウスは紅茶を手に顔を赤らめる彼女に、脚を組み直しながら答えた。
「恥ずかしいもなにも、私はこれでも怒っている」
「そ、それは」
「我が公爵家の姫の扱いにしては、些か粗末に過ぎる」
「えっ?」
てっきり自分の至らなさを叱責されると思っていたアドルフィーナは、兄の口から出た言葉に目を瞬かせた。
「ユスティーツブルク公爵家は何度か王家と縁をつないだこともある気高き家柄だ。由緒正しく、どの家に嫁ごうと、姫と同程度の扱いでもなんらおかしくはない。お前の身も心も、それほど貴いのだ。それを……あちらの家の中で、ゲルハルト殿だけが弁えていない」
穏やかだと思っていた声色は、徐々に硬くなっていく。
ああこれが、もしかすると初めて見るかも知れない兄の怒りなのか――。
アドルフィーナはどんな言葉をかければよいのか分からないまま、兄が語るのを見つめた。
「私に任せておきなさい、アドルフィーナ。決して悪いようにはしない。お前にも、我が家にもな。
……いや、その前にお前の意向をまだ全て聞いていなかったな。何でも言うといい。絶対に悪いようにはしない。お前個人にも、我が家に対しても」
まるで射るような眼差しで、クラウスの双眸がアドルフィーナを捉える。その言葉に、アドルフィーナは紅茶をテーブルに置くと、そっと右手を胸元へ当てた。
「……わたくしの努力不足かも知れませんが、申し上げます。このままゲルハルト様と結婚し、子を孕む行為に至ることに恐怖を感じております。とてもではありませんが、ゲルハルト様に身を委ねるなど……。
ですがこの婚約は貴族間のバランスを取るためのもの。解消するのは難しいことも重々承知しております。つきましては、ゲルハルト様か、わたくしの心持ちを変える教育をしてくださいまし。もしお兄様にご助力いただけるならば、これ以上嬉しいことはありません」
震える手を押さえつけるように力がこもり、制服のリボンに指先が沈む。自然と上がっていきそうな息を胸元で押しとどめながら、アドルフィーナはそれでもクラウスを見つめ返した。
同じ色が交錯する。クラウスの顎が僅かに引かれた。
「わかった。そのように取り計らおう」
クラウスは一度そこで言葉を句切り、ベストの内側から何かを取り出した。繊細な鎖でつながれたその先には、ペンダントトップがぶら下がっていた。つやつやとして宝石が、きらびやかな装飾の中に埋め込まれている。大ぶりに見えるペンダントトップに対し鎖が貧弱に見えるのは、それがロケットペンダントであることを示していた。
クラウスは立ち上がり、アドルフィーナの前で膝をついてそれを握らせた。ロケットは開かないように封をされており、武器で意図的に傷つけない限り中身を改めるのは難しそうに思えた。
「これは我が家に伝わるお守りのようなものだ。今日からお前はこれを常に身につけなさい。そしてこれに誓い、祈るといい。婚約者殿に望むこと、どんな関係を築きたいのか、自分はどんな風に在りたいのか……。
そしてその後は、何があっても誓いに背かないよう、自分を律しなさい。私は必ずお前に報いる」
「……はい、必ず。お兄様」
「良い子だ」
アドルフィーナの手には少し大ぶりにも見えるロケットをそっと両手で包み、彼女は頷いた。兄の前でシャツの襟元からロケットを内側へと仕舞う。その様子を見ながら、クラウスは鷹揚に頷いた。
「なくさないよう、注意致します」
「ああ。……今日はゆっくり休みなさい。疲れただろう」
クラウスの口から出た労いの言葉に、アドルフィーナはこみ上げてくる衝動を堪えながら返事をした。うっすらと目元に溢れてしまった分は目溢しされた。
兄からの言葉を反芻し、アドルフィーナはその日ゆっくりと身体を労り、いつになくほっとした心地で食事を済ませた。そして就寝前になるとロケットを両手で包みながら、目を閉じ、祈った。
どうか、ゲルハルト様とよい関係を築けますように。
どうか、ゲルハルト様の悪い気が収まりますように。
どうか、ゲルハルト様の御心が癒やされますように。
どうかその時に、心から喜べますように。
どうか、まだ、自分の心が折れませんように。
きっとこの婚約を良い形で収められるよう、あと少しだけ努力できますように。
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