3
その日から、詞の図書館通いが始まった。
皿洗いの仕事に行く前に、古今東西のミイラに関する資料を調べる事に夢中になった。
日中は図書館、夜は相変わらず皿洗いに追われた。
見習いコック達が、休憩時間に新聞を眺めていた。
“spell of the mummy”
“ミイラの呪い”といったおどろおどろしいゴシップ記事が載っていた。
閲覧室の机で、傍らに数十冊の書籍を積み上げて詞は調べ物をしていた。
〝っ!〟
古代エジプト史を読んでいた時だった。
詞はハッとなって、一心にそのページを精読した。
勤務を終えて、詞がガレージの鍵を開けようとした時であった。
「お帰りなさい。コトバさん」
暗がりから突然、声をかけられた。
「あぁ、びっくりした」
驚きながら詞が振り向いた。
「すみません。僕には時々、人を驚かせる趣味があるようでして」
探偵紳士が、言った。
「よくここが分かりましたね。さぁ、どうぞ。狭苦しい上に、散らかってますが」
詞の居室に紳士が通された。
鉄瓶に水を入れて、火にかけた。
「それは」
紳士が興味深けに、その丸い鉄の塊を指差した。
「南部鉄瓶と言います」
詞が、答えた。
「ナンブテツビン」
その不思議な韻律を鸚鵡返しに言った。
「日本の江戸時代、幕藩体制だった頃に私の祖先も仕えていた南部藩で作られた湯沸しに用いる物です。これで沸かした湯は味がまろやかになり、鉄分補給にもなって健康に良いとされます」
詞は、説明した。
「被害者が東洋人で、しかも猟奇的な殺人なのでミイラの呪いや、ニンジャの仕業だとか。色々な流言飛語が飛び交っているようですが」
紳士は、木箱の上に雑然と置かれた新聞雑誌を一瞥しながら言った。
「忍者ですか」
そそくさと木箱周辺の雑誌類を片付けていた手を止めて、詞が聞いた。
「今度のミイラ騒ぎは、このいくらか経験を誇りとする専門家をも驚かせ、ほとんど途方に暮れさせた程の事件なのです」
紳士は、言った。
〝シューッ〟
鉄瓶の湯が沸いた音が聞こえてきた。
詞が急須に茶葉を入れ、鉄瓶の湯を注いだ。
「どうそ」
そして、急須からお茶を注いだ湯飲みを差し出した。
「ほう。これは東洋のお茶ですね。烏龍茶ですか?」
紳士が、聞いた。
「いえ。日本の番茶という物で、最も庶民的な茶です」
詞は、答えた。
「バンチャ? 日本で一番のお茶という意味ですか」
紳士は、曲解した。
「当たらずしも遠からずですね」
説明するのが難しいので、詞は曖昧に返答した。
「おっと。話が逸れてしまいした。事件の中心と思える部分に、東洋の神秘という例の我々西洋人の憧れてやまない要素が絡んでいるのです。この事件に際して、東洋の友人ができたのは幸いでした」
紳士が、お茶を飲もうとした湯飲みを持った時だった。
湯飲みの中に、茶柱が立っていた。
「お茶の茎が入ってますが」
ごみが雑じっているかのように、紳士は訊ねた。
「それは、何か良い事が起きるという兆しです」
詞は、答えた。
「予知のようなものですね」
紳士は、言った。
「当てになるものではないですけど」
笑いながら詞は、言った。
「東洋には科学では割り切れない世界。そう、例えば今の茶の葉で吉凶を占うような事があるようですが、呪いと言う力は実際的な物として存在するのでしょうか」
大真面目で、紳士は聞いてきた。
「殺したい相手を人形に作り、夜中に人知れず祈りながら金槌で釘を打ち込むと、相手はいつか病気になったり死んだりするという言い伝えが日本にはあります。私は信じておりませんが」
いにしえより伝わる呪術について、詞は語った。
「それで、一人の男が一晩でミイラになるなどと言う事は」
紳士が、その可能性について聞いた。
「あのぉ。そのミイラに関してちょっと」
話の腰を折るように、詞は言った。
「何です」
少し不快感を持ちながら紳士が聞いた。
「私なりに調べたのですが、エジプトのピラミッドなどで墓荒らしがよくあったそうなんです」
詞は、言った。
「ふむ。それで」
すぐに、紳士は機嫌を直したようだった。
「その際、副葬品の金銀財宝と共にそのミイラ化した遺体も持ち去る場合があるのだそうです」
図書館の本で調べた内容を、詞は語った。
紳士は、顎を撫でながら黙って聞いていた。
「何千年とその姿を保持したしてきたミイラには不老長寿の力が宿っているとされ、江戸時代には健康増進のため粉末化したミイラを服用した大名もいたそうです。それ程の価値を持つミイラは投機の対象ともなり、剥製の古美術品としても流通していると」
詞は、続けた。
「先日、殺されてミイラになってしまったという日本人ですが、果たして本当にその人なのでしょうか」
そして、核心を突いた。
「あなたの言いたいのはこうですね。あのミイラと店主とは別人であると」
紳士は、言った。
「はっきりとは言えないのですが……」
詞は、口ごもった。
「実は、僕がこの数日、老骨に鞭打ち足を棒にして調査した結果、殺されたダニエル氏は、壱万ポンドもの生命保険に加入していた事が判明したのです」
紳士が、説明した。
「受取人は?」
詞が、聞いた。
「ダニエル氏の妻です」
紳士は、答えた。
「では、保険金目当てに自分で自分を殺したのですか」
自身でも意外だと思いながら詞は言った。
「あなたの調べた内容と僕の推理が正しければ、そういう事になります」
紳士は、言った。
「自殺と」
詞が、尋ねた。
「いえ、彼は生きています。もうじき、向うの方からやって来ます」
そう、紳士は断言した。
「はあ?}
詞は、訳が分からなくなった。
「今夜はもう遅いですから、明朝8時にロイズ保険会社ま御足労願いませんか」
懐中時計を見ながら紳士が誘った。
「勿論、行きます」
詞は、快諾した。
「それでは」
風のように紳士は現われて、風のように去った。
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