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明治28(1895)年の事であった。
世はまさに文明開化が提唱されていた。
新政府の近代化政策により、俸禄の武士の身分も無くなっていた。
廃刀令によって刀を取り上げられた飢えた元武士だけが世の中から取り残されようとしていた。
やがて、腰に刀を差した経験さえも無い世代となっていた。
見た所二十一、二。そんな元武士の子であった。中肉中背、とういうよりはいくらか痩せた青年で、飛白の対の羽織と着物、それに縞の細い袴を穿いていた。
羽織も着物も皺だらけで、袴も襞も分からないほど弛んでいた。
紺足袋は爪が出そうになるほど擦り切れて、下駄もちびていた。
被った帽子も形が崩れていた。刀こそ腰に差していなかったが、近代化に乗り遅れたような身なりの詞であった。
瓦版の翻訳程度では、とても生活をしていかれなかった。
字引を引き引きの語学力では、他に仕事は無かった。
今の自分は井の中の蛙、大海を知らずであった。
本場の英語を習得しなければ、始まらない。
食うために詞は単身、語学留学を目的にイギリスに渡った。
英語を学ぶには現地で生活するのが早道を考え、先祖伝来の茶道具や鎧兜などなけなしの家財道具を全て売り払い、捨て身の覚悟での渡英であった。
掻き集めた金は片道分の渡航費に消えていった。
荷と一緒に詰め込まれた船倉で、息を潜めるように何とかイギリスに着いた。
それはまるで、命知らずの武者修行のようであった。
知り合いなど皆無の未知の土地で、糸の切れた凧の如く漂泊した。
ロンドン市内のレストランで、皿洗いの食を得た。
厨房の隅で、山と積まれた汚れた皿を洗った。
時折り、モジャモジャ頭の髪を掻き毟っていた。
「おい、新入り。その頭、何とかならんのかっ」
先輩の見習いコックが、怒鳴った。
「イエス…」
詞は、答えた。
「ここは食い物を扱っている所なんだ。そんな不潔ななりでは困るんだよ」
先輩は、捲くし立てた。
「イエス…ソーリー、ノーマネー」
知っている単語を並べて、詞は散髪する仕草をしながら弁解した。
「ゴミ箱でも漁って、古いハサミ探して切りゃいいだろう」
冷たく、先輩が言った。
「イエス…」
詞が、困惑した。
「まあ、とにかくそのままじゃまずい。これでも被れ」
と言って、先輩が三角巾を投げて寄こした。
「ははは。おい、見ろよ」
他の見習い達が、三角巾を被った詞を見て笑った。
「イエス…」
相手の意図する言葉は何とか理解できたが、語彙力が見に付いていない詞は何も言い返せなかった。
「まるで、田舎の案山子だな」
冷笑された一方であった。
仕事を終えて帰宅するのは、深夜であった。
勤務先から紹介された下宿はと言うと、古いガレージを仕切った俄かに造成したまるで犬小屋のような小部屋であった。
パチッと裸電球を、詞は点けた。
中には使い古しの破れたソファーと、テーブル代わりの木箱があるだけであった。
木箱の周辺には、駅や公園で拾い集めてきた『ロンドン・タイムス』や種々のイギリスの雑誌が散乱していた。
今の英語を学ぶため、新聞や雑誌を夜な夜な読んでいた。
懐から今日のロンドン・タイムスを出して読み始めた。
「っ!」
拾ってきた時は夜の闇で見えなかった文字が、裸電球の下ではっきりと見えた。
“THE MUMMY MURDER CASE IN LONDON”
そう、新聞の一面には見出しが躍っていた。
「マミー、マーダー?」
詞は、唯一の財産として日本から持って来たボロボロの英和字引を木箱の中から取り出した。
「ええと、マウス、マンボ、マミー」
字引には、〝mummy〔mAmi〕①《英・小児》かあちゃん〟と記載されていた。
「かあちゃん? かあちゃんが殺されたって。一体の誰の」
もう一度、詞は字引を見返した。
②(古代エジプト人の)ミイラ。
③干からびた死体。
「ミイラ殺人事件!」
詞は、字引を引きながら夜を徹して記事を読み進めていった。
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