通詞侍
不来方久遠
序
江戸時代まで、詞家は南部盛岡藩の武士であったが、語学に秀でていたため翻訳を生業としてきた家系であった。
麻布警察署盛岡町交番や南部坂の名に往事をしのばせるが、港区南麻布にある有栖川宮記念公園にかつて盛岡藩下屋敷があった。
詞家は通詞を家業として代々相伝していた。
通詞とは、中国とオランダ以外の通商を禁じた鎖国下における江戸幕府の世襲役人で公の通訳者である。
オランダ語の通訳者を通詞、帰化人等で構成された中国語の通訳者は唐通事と別称された。
一人の目付の下に大通詞、小通詞、小通詞助、小通詞並、小通詞末席、稽古通詞、内通詞等がそれぞれ若干名ずつ配置され、三十数家による世襲制で幕末には百数十名に及んだ。
最初は通訳だけに限定されたが、後に洋書の翻訳も行なうようになっていった。
平戸に置かれた通詞会所は後に長崎の出島に移り、異国との貿易事務の通訳と税官吏とを兼ねた。
九州出身でも無い陸奥の南部氏配下の者が、その任に就くのは稀有の事であった。
源氏の流れを汲む徳川家康は自身と同じような境遇で幼少の頃より人質に出され、後に鎌倉に幕府を構えた源頼朝を尊敬していた。
同じ源氏の末裔である南部氏を、家康は良く思っていた節が見られた。
そのためか、幕府の要請で盛岡藩にも通詞養成の命が下った。
オランダ商館長の江戸参府のため、詞家は江戸番通詞として同行した。
その後の鎖国体制が続く中、城下の南部藩邸において他国からの侵略に備えて、その情報収集の目的から異国の文献を翻訳して碌を食んでいた。
幕末になり、薩摩・長州を中心とした新政府に反旗を翻した盛岡藩が失脚すると職を失う事となった。
下町の王子に居を移した詞家は、新聞の前身である民衆向けの瓦版に、諸外国の暮らしぶりなどを紹介する翻訳者として糊口をしのぐようになった。
学術書の翻訳を専門にしていた父親は、代々続いてきた職業を息子にも望んだのかもしれない。
言葉を訳す人、詞 訳人(コトバ ヤクト)。
それで、そんな名を付けられた。
これは、犯罪にかかわる様々な国の外国人を対象にした捜査通訳士となった訳人の五代前の話である。
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